- プロ野球選手一覧 > 長嶋清幸
長嶋清幸(1961年11月12日~)とは、広島東洋カープ、中日ドラゴンズ、千葉ロッテマリーンズ、阪神タイガースの所属していた元プロ野球選手である。
現役時代は小柄な体格から「まめ」の愛称がつき、日本球界にて初めて背番号0を背負った選手として話題になった。
現在は中日ドラゴンズのチーフ打撃外野守備走塁コーチを務めている。
概要
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高校卒業後、ドラフト外で広島に入団する。
3年目の82年に一軍に定着すると、少ない数字の背番号が欲しかった長嶋はその年のオフに82年のメジャーリーグ首位打者となったアル・オリバーという選手が背番号0を付けていることを知り、古葉竹識監督に「0」の着用を相談。古葉からも「縁起の悪い数字でもないから」と許可を受け、翌83年1月13日、カープの背番号が発表されて、プロ野球界初の背番号0が誕生。
すると83年は外野のレギュラーを獲得し、初めて全試合に出場して打率.295、13本塁打57打点という成績を残す。
特に満塁では10打数6安打15打点と勝負強さを見せた他、この年のカープのスローガンが「スタート・フロム・ゼロ」だったこともあり「背番号0・長嶋清幸」はすぐにファンの間で定着した。
翌84年は9月15日、16日の巨人戦にて巨人のエースだった江川卓と西本聖から2日連続でサヨナラホームランを放ってチームを勢いに乗せ、優勝に貢献。
阪急との日本シリーズでは第1戦にてエースの山田久志から逆転2ラン、第3戦では満塁弾を放つ活躍で計7試合で3本塁打10打点と持ち前の勝負強さを最大限に発揮して日本一に貢献し、日本シリーズMVPに選出された。
86年には優勝決定戦となった10月12日のヤクルト戦にて初回に満塁弾を放つなど5打数4安打7打点の大暴れを見せ、西武との日本シリーズでも第6戦、第7戦に本塁打となったが、最終戦となった第8戦では最後の打者となり、工藤公康の前に遊ゴロに終わっている。
その後もレギュラーとして活躍してが、前田智徳の台頭もあってか91年にトレードで中日ドラゴンズに移籍する。
しかし同年6月8日の大洋戦にて2本塁打を放った後、守備の際に他の野手との接触を避けようとした際に右足をひねって半月板を損傷する大怪我を負ってしまい、これをきっかけに自慢の打撃が低迷。
93年には千葉ロッテマリーンズに移籍するも、翌94年には阪神タイガースに移ることになる。
阪神では代打中心の起用となるも、真弓明信のアドバイスで打撃が復活し、94年は70試合の出場ながら打率.310、4本塁打16打点の成績を残している。
97年限りで現役を引退し、その後は多くの球団でコーチを務めている。
人物・プレースタイル
高校時代は両親も手を焼くヤンチャぶりで有名だったようで、スカウトの木庭教からは「息子さんはワル、このままだととんでもないことになる」言われている。
本人にも自覚はあったのか、以前は長嶋清幸の「ツッパリ野球人生」というコラムを連載していた。
また、現役時代は中日戦にて乱闘騒ぎが起きた時、中日の選手の股間目掛けて飛び蹴りをかましたことがある。
2006年に中日ドラゴンズのコーチ契約を解除された際、記者会見を開いて当時中日の監督だった落合博満と野手総合コーチの高代延博を批判している。
勝負強い打撃の他に守備でも4度ゴールデングラブを獲得しているが、プロ入り時は本人曰く「問題外」のレベルであったようで、「鬼軍曹」の異名で知られる大下剛史からは猛烈なノックの嵐を浴びせられている。
守備に自信を持ったきっかけは本来のポジションのセンターではなく不慣れなライトを守った際、捕れないと思った打球にダイビングキャッチで食らいついて捕球に成功した経験から。
通算成績
| 通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1477 | 4543 | 4031 | 477 | 1091 | 108 | 448 | 94 | 102 | 22 | 366 | 15 | 762 | 55 | .271 | .332 |
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関連項目
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