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広島東洋カープとは、日本プロ野球のセントラル・リーグに所属するプロ野球球団である。
本拠地はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島、現在の監督は新井貴浩(2023年~)。
概要
セントラル・リーグ | |
---|---|
広島東洋カープ | |
基本情報 | |
創設 | 1950年 |
本拠地 | MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島 |
一般略称 | 広島 |
アルファベット | C |
優勝回数 | |
優勝 | 9回 |
日本一 | 3回 |
セ・パ交流戦 | 0回 |
アジアチャンピオン | 0回 |
永久欠番 | |
経歴 | |
球団組織 | |
運営母体 | 松田家 |
オーナー | 松田元 |
球団社長 | 松田元 |
プロ野球球団テンプレート |
経営
1950年設立。2リーグ制への分裂とともに、セントラル・リーグに加盟した。
設立当初は原爆からの復興途上ということもあり、広島に球団を持てる規模の企業がなく、柱となる親会社がなかったため、資金繰りに苦しんでいた。そのためを資金集めの後援会を設立し1万3000人の会員を集め、本拠地広島総合球場前(現・Coca-Cola West野球場)での酒樽の中にカンパする「タル募金」などを行ない黒字化に成功するなど伝説を残している。
なお、設立時の借金がどうやっても返せる見込みがなかったので、東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次(後の初代オーナー)の発案で、1955年に当時の球団運営企業だった「広島野球倶楽部」を一旦計画倒産させ、新たな運営企業「株式会社広島カープ」を設立し、事業を継承させた。なお、この時カープの経営トップ陣は、パ・リーグ側の追求に対し、セ・リーグの会長やセの他球団の代表に根回しして「運営企業が名称変更しただけ」ということにして押し通すという無茶苦茶な荒業を使って解散扱いになって選手を取られるのを回避している。
現在は地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であるが、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており 親会社としての球団への資金提供・赤字補填などの球団経営への積極関与は行っていない。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の個人(松田元20.4% 松田弘12.2% 松田勢津子10.1%)がそれぞれ所有株式を持っており全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する。
つまりどういうことかというと、現在は市民球団ではなく実質的に松田家当主・松田元(まつだ はじめ)氏の個人の持ち球団である。ちなみに、祖父・松田恒次から3代続けてカープオーナーである。とは言え、特定の親会社を持たずに経営を成立させているという点から、現在もなお、市民球団のイメージは強い。
本拠地
本拠地はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島県広島市、通称はマツダスタジアム)。二軍の本拠地は広島東洋カープ由宇練習場(山口県岩国市)。
マツダスタジアムは2009年開場の球場で、セ・リーグ球団の本拠地としては最も新しい球場である[1]。内外野総天然芝と左右非対称のグラウンド(ホームベースからの距離がレフトのほうが1m長い)を採用しており、メジャーリーグの球場に近い特徴を持つ。
由宇球場は「秘境」と言われる程公共交通機関でのアクセスが困難な球場で、「練習場」の名が示すとおりファンの観戦は考慮された作りじゃなかったが、近年のブームで観客が激増したこともあってか、
駐車場の台数を増やしまくったり(なお、それでも満車になる事も多い)、グラウンドを観戦しやすいように改修したり、スコアボードを手書き式から電光式にしたり、売店を設けたりと整備が進められつつある。
来歴
かつては衣笠祥雄、山本浩二、達川光男ら打撃陣の活躍、北別府学、大野豊、川口和久、津田恒実ら投手陣の活躍で「赤ヘル軍団」と呼ばれ、1975年の初優勝をきっかけにセントラル・リーグ優勝、日本一を幾度か経験するなど、1970年代から90年代初頭までは非常に強いチームであった。
しかし、1984年の日本一、1991年のリーグ優勝を最後に20年以上優勝できず。1997年シーズンを最後にAクラスからも遠ざけられ、21世紀突入以降、NPBで唯一Aクラスを経験していない球団となっていた。
しかし、2013年の9月25日の試合で、リーグ通算3位が確定し、ついに16年ぶりのAクラス、そして球団史上初のクライマックスシリーズを決めた。
さらに、2016年の9月10日の試合で25年ぶりのリーグ優勝を達成、2017年9月18日には37年ぶりの二連覇を達成した。
2024年の日本シリーズで横浜DeNAベイスターズが日本一となったことで、21世紀以降で唯一日本一になっていない球団となった。
経営事情
球団の金銭的事情もあって、2007年前後まではFA宣言残留を認めておらず、そのためエース級投手や4番が頻繁に移籍していた(現在は宣言した選手によっては、FA残留を認めている)。
特に東隣の球団へは金本知憲(FA宣言→宣言残留を球団が認めず移籍)、アンディ・シーツ(年俸交渉決裂により退団→拾う)、新井貴浩(辛いです事件)と3人連続で4番打者が移籍したため、「東隣のチームの二軍、ファーム」などと揶揄される時期が長く続いた。そのため、カープファンの東隣のファンへの好感度は当然ながら高くない。
上述のFA問題と併せ、かつては12球団一総年俸が低かったことなどから、貧乏球団のイメージが浸透している。2008年度のカープ全選手の総年俸が、2007年オフにメジャー移籍した黒田博樹の契約金+年俸より低かったと言う、まるで冗談のような逸話まである。ちなみに、2006年、2007年はギリギリ黒字であったが、新井と黒田が退団した2008年には2億円以上の大幅黒字増になったという笑えないエピソードもある。
しかし、2009年に新規開業したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者に専任されたことにより、球団の収益は大幅に改善するようになった。新球場移転、カープ女子ブーム、黒田復帰などにより、2014年は来場者数が200万人目前まで伸び、2015年にはついに200万人を突破した(2004年までは100万人を割っていた)。これにより、当期純利益も2014年は5億円、2015年には7億円にまで伸びた。やや財政的に余裕が出てきたのか、2015年度の選手総年俸は12球団中6位まで上昇した。
また、2010年に当時横浜の選手だった内川聖一の獲得に手を上げたり(結局ソフトバンクに入団)、2015年にエースの前田健太がカープで初めて年俸3億に到達(セ・リーグの投手としては最年少記録)した直後に、年俸4億で黒田を復帰させる、年俸1億円以上の外国人選手を相次いで獲得するなど、徐々に変化が現れつつある。
2016年には黒田博樹が山本浩二以来、約30年ぶりにNPB最高年俸の6億円で契約更改するなど、貧乏球団の汚名を返上しつつある。
上記で書いた通り貧乏球団のイメージがあるカープではあるが、実は30年以上黒字を計上している。
というのも、もし赤字になった場合それを補てんするには松田家だけでは困難なため、赤字には絶対できないのである。
そのせいで、かつてはFAで選手が取れなかったり引き止められなかったりして弱くなるという悪循環にはまっていた。
少しでも球団の収益を増やすためか、グッズやコラボ商品が異様に多く、特にベビー用品などは『taitai』(広島の幼児語で魚の意味)というブランドを立ち上げるほど充実している。
昔からグッズは多かったらしいが、火をつけたのがブラウン監督時代だった。2006年のベース投げ事件が起きた後の試合前の練習で「MY MANAGER THEROWS BASES(ウチの監督はベースを投げるぞ)」や「THEROW BASES(私はベースを投げるぞ)」と書かれた練習用のTシャツ(発案者はオーナーである松田元氏)を着ていたことからファンからの問い合わせが来たこととTBS系列で全国放送されているサンデーモーニングでその話題を取り上げたところ張本氏からは語気を強めて「松田オーナーにあっぱれ」と評され、大沢啓二親分からは「売り始めたら売れますよ」と言われるほどであり、広島のグッズ販売の方向性が決まるきっかけとなった。
また、最近の試合で起きた事件を記念して発売する記念Tシャツは試合日の翌々日には通販で売り出し、今やカープのお家芸となっている。松田一宏オーナー代行によるとスピード重視と語っており、自社工場を構えるほどである。最近では、2000本安打まで残り25本に迫った新井貴浩が、ヒットを一本撃つごとにカウントダウンTシャツを売り出している。
2016年に優勝した時には、ビールかけで選手が着ていたTシャツのレプリカも販売されたが、県内のスーパーなどの各店舗で入荷即完売の状況が頻発し、しばらくの間、入手困難な状況が続いた。
マスコットのカープ坊やのコラボ商品は仕事選べと言いたくなるほど多く、広島の浄土真宗本願寺派とのカープ坊主や七福神坊やあたりはまだわからないでもないが、サッカーや自転車、プロレスなどの野球以外のスポーツ、挙句の果てにはツール・ド・フランスの常連客の「悪魔おじさん」とのコラボなど意味不明なものまで存在する。
兄弟?に「カープ女の子」と「ベビー坊や」がいる。カープ女の子は赤毛の天パが特徴で、ベビー坊やはバットの代わりに哺乳瓶をもつ。先述の「taitai」のペットマークはベビー坊やである。
これ以外に、選手を坊や化した選手坊やシリーズがある。
地元企業との結び付きも強く、イズミやリョービ、デオデオの流れをくむエディオンなどが主要なスポンサーとなっている。上記の通り「持分法を適用してない非連結親会社」であるマツダもスポンサーとして積極的に関わっており、カープのヘルメットはマツダの全面協力のもと自動車の塗装を応用した塗装がなされている。
選手運用方針
選手運用は「育てて使う」が基本で、事実アマチュア時代ほぼ無名だった選手が(高卒の場合)5~6年の下積み後に一軍デビューしファンの胸を熱くするケースが多い。ファンもその喜びをよく理解しており、無い物ねだりは基本的にドラフトのみ。最近では2011年の今村や2012年の堂林抜擢が顕著な例。
その一方で高卒投手の墓場が長年続いており、90年代の急激な弱体化はこのことによる投手力低下が無縁ではない(野手は毎年のように主力が抜けても割とすぐ埋まった)。この年の高校生ナンバー1投手・川島堅を競合の末に引き当てるも、結局潰した1987年のドラフトが象徴的である(高卒投手6人を指名して全滅に終わる)。
最近では即戦力の大卒または社会人投手の獲得も多く、野村祐輔(11年1位)、大瀬良大地(13年1位)、九里亜蓮(13年2位)、薮田和樹(14年2位)、岡田明丈(15年1位)など、ルーキーイヤー、または2、3年目までに顕著な成績を残す者も続々出始めている。
マスコット
マスコットはキモカワイイ事で有名なスラィリー。ピロ
通常の体毛は青色だが、チームが大量得点を上げるなどハッピーなことがあると、ピンク色の「ハッピースラィリー」が登場することがある。
また冒頭の、球団ペットマークに使用されている子供のマスコットの名前はカープ坊や。かつて中日、近鉄、大洋など他の球団でも多く存在した、野球少年をモチーフにしたマスコットの貴重な生き残りである。
今日ではカープ坊やには派生キャラが多数存在する。興味ある人はカープグッズショップを要チェック。
その他
余談ではあるが、かつては前田や篠田等、AKB48と姓が被る選手が多かったため、県外の一般人がカープの話をしているかと思ったらAKB48の話題だった、とぬか喜びさせられたことも。
ニコニコ動画での広島東洋カープ
ニコニコ動画内ではあまり存在感がないように見えるが、対巨人戦になるとその存在感を遺憾なく発揮する。
阿部慎之助に対する山崎浩司の隠し球動画やブラウン監督の退場動画や、2008年5月17日に野球chで発生した神占い師の動画がその代表格と言える。
2008年は旧広島市民球場ラストイヤーという事でいつもより少し存在感があった。
また、ストッパーの永川勝浩が苦手とした時期がある事から、対ベイスターズ戦の動画も多い。
選手個人でも前田智徳が2000本安打を達成した時に作られたMADがランクインした事がある。
(現在はアップロード者により削除→再うp版?)
関係者
首脳陣
一軍 | 二軍 | 三軍 | |
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所属選手
※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示があるまで編集しないでください。
※ドラフト指名を受けた新入団選手は入団発表後に追加してください。
支配下選手 | |||
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投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
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育成選手 | |||
投手 | 捕手 | 内野手 | 外野手 |
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記事のある球団スタッフ
- 浅井樹(ベースボールクリニックコーチ)
- 井生崇光(一軍管理課長)
- 岩本貴裕(情報課主任)
- (103)上野弘文(打撃投手)
- 河内貴哉(一軍管理課長兼広報部課長)
- 菊池保則(打撃投手)
- 岸本秀樹(編成部情報処理課長)
- 篠田純平(一軍マネージャー)
- 下水流昂(二軍マネージャー兼広報部広報課主任)
- 庄司隼人(編成部編成課兼情報課)
- 白濱裕太(スコアラー)
- 苫米地鉄人(二軍チーフトレーナー)
- 土生翔平(情報課主任)
- 比嘉寿光(編成部編成課長兼広報部広報課長)
- (108)久本祐一(打撃投手)
- 松本高明(一軍マネージャー兼広報部広報課主幹)
- (113)山本芳彦(打撃投手)※現役時代は野手
スカウト
- ブラッド・エルドレッド(駐米)
- 鞘師智也(近畿地区)
- エリック・シュールストロム(駐米西部地区)
- 末永真史(九州地区)
- 田村恵(スカウト部課長)
- スコット・マクレーン(駐米東部地区)
OB
球団史
広島カープ時代
1949年
球団誕生。12月15日にセントラル・リーグに加盟する。球団名は『広島カープ』。
親会社を持たず、球団の経営は広島県、広島市などの地方自治体、東洋工業(現・マツダ)、中国新聞社、広島電鉄などの地元企業、そして広島県民・広島市民の出資によって行われた。初代監督は広島県出身の石本秀一。
1950年(41勝96敗1分、8位) 監督:石本秀一
プロ野球参戦初年度。本拠地は広島総合球場。親会社を持たず、金銭面に苦労したカープは、ルーキーでありながらエースに踊りでた長谷川良平が15勝(27敗)と奮闘するも、勝率.299、首位と59ゲーム差の最下位に終わった。
1951年(32勝64敗3分、7位) 監督:石本秀一
経営難から解散や合併案が出ていたカープを救うべく、球場前で『樽募金』が行われた。しかし、チームの成績は2年連続最下位。勝率は.333に。武智修がセ・リーグ7位の打率.314を記録。シーズンオフにエースの長谷川良平が自由契約を宣言する事件が起きるが、最終的にコミッショナー裁定でカープ残留が決定。
1952年(37勝80敗3分、6位) 監督:石本秀一
5月7日にノーヒットノーランをくらうなど低迷するが、長谷川が11勝、ルーキーの杉浦竜太郎が9勝と活躍し、球団創設3年目にして初の最下位脱出。杉浦は防御率2.94でセ・リーグ9位に輝く。また、山川武範が球団初のサイクルヒットを記録。
ちなみにこの年は「勝率が3割切った球団は処罰する」という取り決めがあり、処罰とはすなわち、球団消滅だったため、一歩間違えば広島カープの歴史はわずか3年で終わっていたことになる。その年のオフに消えることとなった最下位の松竹ロビンス(勝率.299)にカープを存続球団とする合併を申し入れたが、拒否された(なお、松竹は大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に合併された)。
市民から樽募金を募い、松竹のスター選手だった小鶴誠、金山次郎を獲得。
1953年(53勝75敗2分、4位) 監督:石本秀一・白石勝巳
初のシーズン50勝・勝率4割と参入後最高の4位を記録した。監督は初代の石本秀一からシーズン途中に白石勝巳(選手兼任監督)に交代した。ちなみに白石は本年全試合出場を果たす。オールスターでは、長谷川良平・白石勝巳・小鶴誠の3選手がそれぞれファン投票で1位選出された。金山次郎が58盗塁でチーム初の最多盗塁のタイトルを獲得。
1954年(56勝69敗5分、4位) 監督:白石勝巳
新日本リーグ(現在の二軍に当たるリーグ)に参加。呉二河球場を本拠地としたチーム名を『広島グリーンズ』として参加。7月に白石勝巳がプロ野球史上初の1500試合出場を達成。
1955年(58勝70敗2分、4位) 監督:白石勝巳
ウエスタン・リーグが発足しグリーンズも参加。シーズン成績は4年連続で勝数・勝率とも最高を更新するが、3位(Aクラス)とは13ゲーム差をつけられる。長谷川良平が防御率1.69の成績で30勝を挙げ初の最多勝利のタイトルを獲得。後のカープを支える達川光男・大野豊・山根和夫らは本年が誕生年。
1956年(45勝82敗3分、5位) 監督:白石勝巳
二軍の広島グリーンズを『広島カープグリナーズ』に改称。一軍の成績はプロ野球参入後初の5位になる。5月20日の巨人戦では木戸美摸に観客が投げたビール瓶が直撃し2針を縫う怪我を負わせる事件がおきた。この時、監督だった水原茂も暴行を受けたことで、広島での試合を行わないと発言されるなど、リーグ参加が危ぶまれる出来事となった。
1957年(54勝75敗1分、5位) 監督:白石勝巳
7月24日に本拠地を広島総合球場から広島市民球場に移転・開場した。起工式から完工式まではわずか5ヶ月のことである。広島県で初のナイター開催となった試合ではあるが、阪神相手に1-15で大敗した。
広島東洋カープ時代
2000年代
2008年(69勝70敗5分、4位) 監督:マーティー・レオ・ブラウン
1983年から1993年、2003年から2005年まで広島の打撃コーチとして小早川毅彦、緒方孝市、野村謙二郎、江藤智や前田智徳、金本知憲、嶋重宣、新井貴浩らの育成に貢献した内田順三を再び招聘することに成功。後の強力打撃陣の礎となる。
2009年(65勝75敗4分、5位) 監督:マーティー・レオ・ブラウン
この年から本拠地が「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」となる。ヤクルトスワローズ、阪神タイガースとの3位争いを繰り広げたが、5位に終わり、ブラウン監督は退任。後任は野村謙二郎となる。
2010年代
2010年(58勝84敗2分、5位) 監督:野村謙二郎
この年から監督は野村謙二郎になる。開幕後から投手陣に故障者が相次いだが、そんな状況下で開幕投手の前田健太は最多勝、最優秀防御率、最多奪三振で投手三冠王に輝いた。しかし明るい話題はこれくらいで、2年連続の5位。
2011年(60勝76敗8分、5位) 監督:野村謙二郎
エースの前田健太が不振に陥ったが、新外国人のブライアン・バリントンとデニス・サファテ、ルーキー福井優也、4年目の丸佳浩が活躍し一時は首位に立ったが、交流戦では最下位となり、前半戦は5位に終わる。後半戦に入り、栗原健太が活躍し、先発の構想枠から外れた今村猛がこの時期以降セットアッパーに定着し始めた事もあり、8月には3位に上がったが、主力に故障が相次ぎ順位を下げ、10月にBクラスが確定し、4年連続の5位。
ドラフト会議では8選手(内育成4選手)を獲得した。
2012年(61勝71敗12分、4位) 監督:野村謙二郎
エースの前田健太と前年大活躍だったブライアン・バリントンに加えドラ1ルーキーの野村祐輔、怪我からの復活を目指す大竹寛と先発の駒が揃い、今村猛、デニス・サファテに新外国人のキャム・ミコライオを加えた勝ちパターンがあり、投手力の高さが評価されて開幕前の順位予想ではAクラスを予想する評論家もおり、まずまずの下馬評で開幕を迎える。
開幕直後は前田健太が横浜DeNAベイスターズ戦でノーヒットノーランを達成、6連勝もあり一時は首位に立つが、栗原健太が離脱した辺りからみるみる貯金をすり減らして定位置に戻ってしまう。それでも交流戦を10勝11敗3分の負け越し1でやり過ごすと、オールスターまでに14勝7敗と好調をキープして15年ぶりに前半戦をAクラスターン。堂林抜擢も当初は不安があったが、蓋を開けてみると打撃の才能を開花させた。(三振数とエラー数はさすがに一年目と言うことで多かったが。)
ヤクルトと阪神が不振ということもあり、当然15年ぶりのAクラスと初のCS進出に期待がかかる。8月までは怪我人が続出しながらもしがみつくヤクルトを抑えていたのだが…
9月に入ってから、打撃陣が揃って不振に陥ったことにより、点が取れなくなる。4位ヤクルトとの直接対決で3タテを喰らうなどして8連敗、4位に転落し、そのまま15年連続のBクラスが確定してしまった。
この年は栗原やニック・スタビノアといった主砲クラスに怪我人が続出したこと、12球団ワーストのエラーを記録し投手陣の足を引っ張ったことなど、主に野手陣の課題が浮き彫りになった。
オフに石井琢朗・井生崇光が引退しいずれもコーチ、球団職員として球団に残ることに。浅井打撃コーチが降格し、この年までオリックスの二軍監督をしていた新井宏昌氏を一軍打撃コーチに招聘した。
野村祐輔が新人王を獲得。2012年ドラフト会議では7選手(内育成2選手)を指名した。
更に中日を戦力外になっていた久本祐一を獲得。新外国人にはフレッド・ルイス、ミゲル・ソコロビッチを獲得。
2013年(69勝72敗3分、3位) 監督:野村謙二郎
2013年は特に目立った補強もなく、ドラフトも将来性を重視したものであったことから、(カープOBを除いて)最下位候補に上げる評論家がかなり見られる中、シーズンが開幕。
序盤から一度も貯金を作れず、4月に代打の神様・前田智徳や4番のエルドレッドがどちらも死球で早々に故障離脱、前田健太や野村祐輔が故障や不調で一時的に離脱する中、徐々に借金を増やしていったが、中日、DeNA、ヤクルトも同様に同じ程のペースで借金を増やしていったことから、飛び抜けた低迷はしなかった。だがセ・パ交流戦は11勝13敗の8位、前半戦は5位でターン。新戦力の久本が先発、中継ぎ等便利屋としてフル回転したり、栗原、東出の不在により野手は一部の若手が打撃や盗塁で気を吐いたもののWBCの疲労かセットアッパー今村から前年ほどの安定感が無くなる、ルイス、ソコロビッチら新外人は思うような結果を残せないなどして、借金は最大17にまで膨らんだ。
だが後半戦では前半戦の終盤で途中参戦したキラ・カアイフエの活躍や、新井打撃コーチの徹底したティーバッティングによる打球捌き等をはじめとする打撃指導が実を結んだのか前半から安定していた梵、丸、菊池、松山のみならず、不振だったルイスや、會澤、赤松、木村、小窪、石原ら主に下位打線の野手陣が月毎に次々に打撃結果を残し始めるようになる。
投手陣も前田健太や野村祐輔が復調し始め(野村に至ってはプロ初ホームランまで放つ始末)、前半好投してもムエンゴに苦しんでいたものの後半の野手陣の奮起から援護が得られるようになったバリントンが後半戦では7試合連続で勝ち星が付くなどした結果、8月には今季初の月間勝ち越しを決めるなど善戦した。
9月は前半戦故障と不調に苦しんでいたエルドレッドを昇格させ調子の落ちかけていたキラと併用し、外野にコンバートするなど思い切った采配が功を奏し、前年からの教訓から中崎、中村恭ら伸び悩む若手を起用し続けてでも先発投手陣の登板間隔をこの月まで中6日と崩さなかった起用法を、ここで中4,5日に詰めてスパートを掛けたのが成功。4年ぶりに7連勝し、9月・10月の月間成績は16勝9敗1分けと好調を維持した。
終盤には中日との3位争いからも完全に抜け出し、9月25日に16年ぶりのAクラスと初のCS出場を決めた。
前田健太、大竹寛、野村祐輔、ブライアン・バリントンの4人が二桁勝利し先発投手の10勝カルテットも達成した。
そして初のクライマックスシリーズでは1stステージで阪神を連勝で降し、2ndステージの舞台である東京ドームへ乗り込むが、巨人戦では逆に3連敗を喫し敗退した。
オフに前田智徳、菊地原毅が引退。ドラフト会議では5選手(育成選手はなし)を指名した。
例年よりも少ない指名だったが、1999年の河内以来となるドラフト1位競合での指名権獲得となった大学野球日本代表のエース大瀬良大地、2位に亜細亜大のエース九里亜蓮など即戦力としての実績十分な人材を多数獲得した。
10勝カルテットの一角だった大竹寛がFA宣言を行い巨人に移籍。その補償選手として一岡竜司を獲得した。
また、新外国人として左腕のザック・フィリップス投手を獲得した。
2014年(74勝68敗2分、3位) 監督:野村謙二郎
詳細はプロ野球2014を参照
セ・パ交流戦に入るまでは首位を快走していたが、交流戦で3位に落ちる。最終的に阪神とは0.5ゲーム差の3位に終わる。
2015年(69勝71敗3分、4位) 監督:緒方孝市
詳細はプロ野球2015を参照
2016年(89勝52敗2分、1位) 監督:緒方孝市
詳細はプロ野球2016を参照
25年ぶりのリーグ優勝を達成。日本シリーズでは日本ハムと対戦したが、4勝2敗で敗れた。
2017年(88勝51敗4分、1位) 監督:緒方孝市
詳細はプロ野球2017を参照
37年ぶりの2連覇達成。CSでは横浜DeNAと対戦し、2勝4敗で敗退、日本シリーズ出場を逃した。
2018年(82勝59敗2分、1位) 監督:緒方孝市
詳細はプロ野球2018を参照
球団史上初の3連覇達成。日本シリーズでは福岡ソフトバンクホークスと対戦し、1勝4敗1分で敗れた。
2019年(70勝70敗2分、4位) 監督:緒方孝市
詳細はプロ野球2019を参照
5月に球団新記録の月間20勝で首位に立つも、交流戦から大失速。丸佳浩の移籍や主力の不振で攻撃力が低下し、サビエル・バティスタのドーピング違反や緒方監督の暴力事件などで士気も低下、最後の最後で阪神にかわされBクラスに転落した。この結果を受けて緒方監督が退任し、佐々岡真司が新監督に就任。
2020年代
2020年(52勝56敗2分、5位) 監督:佐々岡真司
詳細はプロ野球2020を参照
投打が噛み合わず、開幕から終始低空飛行。浮上のきっかけを掴めず9年ぶりの5位。
2021年(63勝68敗12分、4位) 監督:佐々岡真司
詳細はプロ野球2021を参照
2022年(66勝74敗3分、5位) 監督:佐々岡真司
詳細はプロ野球2022を参照
2023年(74勝65敗4分、2位) 監督:新井貴浩
詳細はプロ野球2023を参照
2024年(68勝70敗5分、4位) 監督:新井貴浩
詳細はプロ野球2024を参照
年度別球団成績
- (2024年終了時点)
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順位
シーズン最高成績(チーム)シーズン最低成績(チーム)シーズン個人最高成績(野手)
シーズン個人最高成績(投手)
通算個人最高成績(野手)通算個人最高成績(投手)その他
歴代監督(代行含む)
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関連動画
商品検索
関連項目
外部リンク
NPB所属球団 | |
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セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ 横浜DeNAベイスターズ | 中日ドラゴンズ 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス 千葉ロッテマリーンズ | 埼玉西武ライオンズ オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
脚注
- *12球団では2023年開業のエスコンフィールドHOKKAIDO(北海道日本ハムファイターズ本拠地)が最新。
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 15
- 0pt