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川又米利(かわまた よねとし)とは、元プロ野球選手である。

概要

1960年8月4日生まれ。東京都調布市出身。小学校時代から野球を始めリトルリーグではエースとして活躍。

早稲田実業学校高等部へ進学。1年時より一塁・外野手レギュラーとして活躍。在学3年間で通じ4度の甲子園大会に出場。この他1年には明治神宮大会優勝、2年国体優勝など全レベルで活躍し、同じ高校出身であり、左の強打者であった王貞治になぞらえて「2世」と呼ばれることもあった。

1978年オフ中日ドラゴンズドラフト外で入団。

入団後はプロにぶつかり、二軍では1982年ウエスタン・リーグ首位打者を獲得したものの、一軍レベルではなかなか結果の残せないシーズンが続いた。

1983年代打中心に起用され、出場は32試合だったが、打率.327、6本塁打、14打点と少ないチャンスで活躍。だが期待された翌シーズン打率.114と期待を裏切る結果を残してしまった。

1985年ライトレギュラーの座を獲得し、122試合に出場。初めて規定打席に到達し、打率.290、9本塁打、44打点の成績を残した。

1986年谷沢健一に代わりファーストとして起用され、打率.277、9本塁打、42打点マーク

1987年打率こそ.253と落としたが、16本塁打、57打点本塁打打点はキャリアハイの成績を残した。

1988年打率.280、6本塁打、35打点の成績を残しチームリーグ優勝に貢献。日本シリーズでも郭泰源から本塁打を放つなど活躍を見せた。

以降の年は落合博満助っ人外国人たちの加入・活躍もあり、スタメンでの出場機会は減少。に左の代打の切り札として起用されるようになっていく。

1996年代打本塁打を放ち、16本代打本塁打本塁打を放った。

1997年、現役を引退

引退後は中日で2度打撃コーチを務めた。この他、2007年クラブチーム「NAGOYA23」を結成し総監督として活動していた(2014年活動休止)。

現在野球解説者評論家として活動しつつ、ドラゴンズベースボールアカデミーコーチを務めている。

人物・エピソード

勝負強い打撃で活躍した強打線の左の代打の切り札。通算代打本塁打16本はNPB歴代5位の記録である。また、巨人戦を得意としていた。

打撃は得意としていた一方で、守備や走塁面を苦手とした。

又に使用されていた応援歌は、引退後も「チャンステーマ3(通称:チャンテ)」としてしばらくの間使用されていた。

通算成績

打撃成績

通算:19年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1415 3387 2897 303 771 74 364 23 50 34 394 8 433 57 .266 .352

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応援歌

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川又米利

1 ななしのよっしん
2022/12/11(日) 18:04:20 ID: bJFQZN0u+R
守備に難があったので、右投手先発の時はスタメン、
投手先発の時は代打の切り札だった。

落合博満トレードの時には、上川誠二と共に
放出リストに入っていたらしい(DH制パ・リーグ
なら全試合出られるという心だろう)。
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