平成の米騒動とは、平成初期の日本を襲った深刻な米不足である。
概要
1993年(平成5年)の記録的冷夏 [1] により、東北地方を中心にコメが戦後最悪の不作に陥り(全国の作況指数(平年値が100)が74、つまり消費量の4分の1が不足)、これによって多大な社会的混乱が生じた。
政府はタイ、アメリカ、オーストラリア、中国から緊急輸入を図り、日本の食卓になじみのない「タイ米」が食卓に上ることになった。
経過
平成米騒動発生当時の全国の年間米消費量は1000万トン弱、日本人は1人あたり約67.5kgの米を消費していた(1992年)[2]。
1993年の冷夏による稲作への影響は太平洋側の東北地方で特に深刻で、岩手県が30、宮城県が37の壊滅的な被害を受けた。青森県の太平洋側ではさらに低く、下北半島では収穫皆無の水田も少なくなかった。宮城県の被害が特に大きかったのは冷害に弱いササニシキの作付けが多かったためである。そのほか九州でも低温と豪雨災害により収穫高は平年を大きく下回った。
既に米あまりになって久しく、政府は国内の消費減少に見合う形で備蓄米を減らしていた矢先のことであった。93年当時の政府備蓄米は23万t程度しかなく、全量を放出しても全く不足することは明らかだったため、海外からの緊急輸入に踏み切った。当初政府はジャポニカ米を生産しているアメリカ合衆国からコメを確保したい考えだったが、100万t単位の輸出に応じることができる余力は到底なく、インディカ米輸出国であるタイ産を主力とせざるを得なくなった。結果的に中国・オーストラリアを含めた4カ国から259万tの輸入が行われた。
当時の(今も)日本でタイ産のインディカ米は全くなじみがなく、炊き上げて食べても全く美味しくないため嫌われた。政府は国産米とタイ米を混ぜた「ブレンド米」を販売するよう指導するなどしたが、それでも100万t近い輸入米(大半がタイ米)が売れ残った[3]。
1993年末に政府は、米の市場開放を含めたウルグアイ・ラウンド合意の受け入れを表明。結果的に緊急輸入が日本のコメ市場に風穴を開けたことになる。
1994年の日本は一転して猛暑となったことで大豊作となり、コメ不足は解消。米騒動は終息した。
その後
食糧庁はこの年の教訓から備蓄米削減政策を見直し、100万t程度を目安に積み増すことになった。
宮城県ではササニシキの作付けが一気に廃れ、冷害に強いひとめぼれに切り替わった。
米の年間消費量は2019年、元号が令和に変わる頃には700万トン強にまで落ち込んでいる。つまり作況指数74であった1993年よりも消費量が既に少ないのである。
関連動画
平成のころからごはん食の減少にともない政府も広報を使い米食の推進をはかっており、米騒動の際にも同様にタイ米を含めた米食についてCMで理解を求めている。ただ結局あまりタイ米のほうは浸透しなかった。
解説動画
関連項目
脚注
- *この年はいったん発表された梅雨明け宣言が8月下旬に撤回され「梅雨明けがない」年となった
- *https://www.jstage.jst.go.jp/article/jfsr1994/11/1/11_1_2/_pdf
- *令和に「コメ不足」再来の危機 ? “平成の米騒動”に学ぶ課題と、今 農家にできること (minorasu 2022/05/09)

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