武井夕庵(?~?)とは、戦国時代の武将である。
概要
織田信長の祐筆の一人。織田信長の側近として重宝されたが、本能寺の変後は存在感を減じた。
美濃時代
もともとは美濃の出で、土岐頼芸から斎藤道三→斎藤義龍→斎藤龍興に仕えたと『立政時文書』の付箋に記した通り、少なくとも後斎藤氏(美濃一色氏)に仕えたのは確かである。彼の発給した文書が斎藤道三から斎藤龍興の時代に至るまで存在し、この点から『甫庵太閤記』や『武家事記』に桶狭間の戦いで熱田神宮に願文を収めた伝承が否定される。
ただし、斎藤龍興との戦いの間にヘッドハンティングされた一人だったようで、永禄8年(1565年)12月5日の細川藤孝宛ての書状が、武井夕庵の書いた織田信長の書状の初見とされる。
織田信長側近としての活躍
武井夕庵は上洛後から各種奉行として並はずれた活躍をした。この辺、松井友閑といった同僚だけではなく、佐久間信盛や柴田勝家、滝川一益といった武将たちとの連署状も多数みられるので、本当に重宝されたのだろう。この辺りは、ルイス・フロイスに「信長の書記」と記されている。
なお、『甫庵太閤記』や『当代記』、『武家事記』といった二次史料には、織田信長のブレーンとして彼に諫言できる存在だったように描かれているが、これが事実かどうかはわからない。
その武井夕庵を代表する仕事が、外交面である。勅使としてやってきた山科言継や吉田兼見、尋憲といった当時の日記を残した人物が真っ先に出会っているのが武井夕庵であり、何かと記録に残っているのである。
武田信玄との交渉なども担った武井夕庵だったが、どちらかというと西国を担当にしており、羽柴秀吉とともに吉川元春や小早川隆景といった人物に連絡を取っている。
こうした、上洛戦以前から活躍していた古参だったため、次第に堀秀政、万見重元、森成利(森蘭丸)といった後輩たちに仕事を任せて退いていった。とはいえ、二位法印に任官したほどの重用をされた武井夕庵は、織田信長の茶会に織田信忠の次、林秀貞の前という、かなり重役として扱われていたのであった。
晩年
当代記によると、馬揃えの際坊主衆にいた武井夕庵は、既に老齢だったため乗馬も危うそうな感じだったという。かくして、本能寺の変の後は、天正13年(1585年)に山科言経を応対した記録程度しか残っていない。
補足
実は信長の野望には全く出たことがない(太閤立志伝にはいるのだが…)。
関連項目
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