「ルイス・フロイス」(Luís Fróis, 1532~1597)とは、戦国時代のポルトガル人宣教師である。
戦国時代を詳細に記した書『日本史/Historia de Iapam』の著者であり、戦国時代好きにはもっと感謝されるべき・ずっと評価されるべき人である。
概要
1548年、彼はリスボンでキリスト教(カトリック)の修道会であるイエズス会に入会し、同年3月、彼はインドのゴアに向かい、10月に到着する。その地で日本人キリスト教徒のヤジロウ、及びフランシスコ・ザビエルに出会う。これが後年、彼を日本へと向かわせる直接のきっかけであったと思われる。
1563年、すでに司祭となっていた彼は、ついに日本行きを決意、九州の横瀬浦(現・長崎県西海市)に上陸。以降、彼は1597年7月に長崎で亡くなるまで、日本における布教活動と活動報告書の作成、および上司のヴァリニャーノ及びガスパル・コエリュから作成の命を受けた『日本史』の執筆を続けることになる。
『日本史』について
そもそも始めにフロイスの執筆した『日本史』は、あまりにも内容が膨大、記述が冗長であるとして、上司のヴァリニャーノは本書をヨーロッパへ送付することを許可しなかった。
※このことを聞いたフロイスは、できれば短く纏めたいが、もう私の余命は長くなく自分には不可能である、だから原型のままヨーロッパに送付してほしい、という嘆願の書簡をのこしている。
その後『日本史』はヨーロッパに送られることは無く、マカオのイエズス会学院の書庫に放置同然に保管されていた。そして18世紀、ポルトガル政府による海外文書の謄本事業により写本が作成されたが、原稿は再び放置された。そして1835年、同学院の火災により原本は消滅してしまったのである。
従って現存しているのはその写本のみであるが、その写本も数奇な運命をたどっている。
詳細は省くが、結局この写本は20世紀に入って、複数の箇所(リスボンのアジュダ王宮図書館、ポルトガル海外史文書館、フランス・トゥルーズの故サルダ氏の文庫、ポルトガル国立図書館など)から断片的に発見され、それらを繋ぎ合わせて復元したのが現在に伝わる『日本史』である。ただし完全に復元された訳ではなく、「日本六十六史」「日本総論」の部分は現在でも発見されていない。
『日本史』の評価
当時のことを同時代人が書いた第一次資料であるので、極めて信憑性が高い。また足利義輝・織田信長・豊臣秀吉といった時代の権力者からも信任され、また宣教師として名も無き市民とも幅広く接触したということも、内容に幅を持たせている。
ヴァリニャーノから酷評された、冗長であるというということも、むしろ現代の研究者からすればありがたいことであり、当時の日本人では記述もしないような日本人の日常生活などについても、詳しく記載されている。
しかしながら明らかな欠点も存在する。それは、キリスト教的偏見に満ち溢れていることである。例えば、仏教の高僧・朝山日乗の事を「悪魔の手先」呼ばわりしたり、「日本の祭儀は悪魔によって考案された」と記述したりである。
そうした欠点もあるが、この『日本史』は戦国時代の研究には欠かせないものであるという評価が一般的である。
その他
…はなはだ決断を秘し、戦術には極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、又はほとんどの家臣の言に従わず、一同から極めて畏敬されていた。(中略)だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しげに話した。
- しかしながら、『日本史』による明智光秀の人物像は、あまり受け入れられていない。
- 1992年に放送されたNHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」はフロイスの視点からみた信長の一代記である。
- フロイスは大名のことを「王」と記載した。しかし、なぜか和田惟政のことを「副王」と記載している。「奉行」の記載ミスだとしても、和田惟政は奉行ではなかったので誤りである。
KOEIの作品におけるフロイス
- 信長の野望シリーズにおいては、数ある南蛮人の一人というあつかいである。『革新』では、アイテムや技術を大名家にもたらしてくれる。
- 太閤立志伝シリーズにおいては、京都の南蛮寺で開墾師事役となっている。特に太閤立志伝4においては、最重要カード「新武将カード」の取得において、中心的な役割を果たす。
関連動画
▼戦国時代を描いた漫画・小説の紹介役として、大友宗麟と共に登場
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関連項目
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