斎藤道三(さいとう・どうさん 1494?/1504? ~ 1556)とは、戦国時代の武将。美濃の戦国大名・斎藤氏の初代当主である。
概要
美濃のマムシ、梟雄、ギリワンなどと散々な言われ方をするが、いわゆる典型的な下克上武将である。司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公などとして知られる。織田信長の舅。
僧侶、商人を経て武士となり、混乱する家中で才覚を発揮して成り上がり、遂には国主の座にまで上り詰めた一大の傑物……と言われていたが、実際は親子二代に渡る出世劇とみられている(後述)。
数々の謀略を駆使し、日本三大梟雄の一人に数えられるが、最期は息子の手にかかり命を落とした。出世と共に何度か改名しており、最も有名であろう「斎藤道三」の名を名乗ったのは実は晩年の2年にも満たなかったりする。
生涯
若き日々
明応3年(1494)生まれという説が強かったが、近年では永正元年(1504)生まれとする説も有力になってきており、その年齢は結構あいまいである。北面武士(朝廷の警護役)の松浪基宗の子として生まれたが、当時の朝廷の貧乏ぶりを考えるとその暮らしぶりはお察しである。
最初は京都にある「妙覚寺」で僧侶をしていたが、後に松浪庄五郎(まつなみ・しょうごろう)と名乗り油商人となる。彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたら料金を貰わないという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、富を蓄えた。
やがて武士になる事を目指し(あまりにも油売りのパフォーマンスが見事だったため、「そんなに器用ならどうせなら武士になればいいのに」と言われて一念発起したとか言われている)槍や鉄砲の稽古に励んだと言われているが明らかにこの時代に鉄砲は伝来していないのは御愛嬌。
美濃の実力者へ
庄五郎には僧侶をしていた頃の弟弟子・日運というツテがあった。日運は美濃守護代・斎藤氏の生まれである。こうして、美濃守護土岐家の重臣・長井長弘(日運の甥)の家臣になることに成功する。まもなく、武芸と知略のいずれもにおいて優れた働きを見せて次第に頭角をあらわし、当時断絶していた長井家臣西村氏の名をもらい西村勘九郎(にしむら・かんくろう)を名乗る。更には美濃守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。
この頃の土岐家は、永正16年(1519)に先代の土岐政房が死去して以来、長男の土岐政頼と次男の土岐頼芸とが守護の座を争っており、家中は二派に分かれていた。長井長弘は頼芸派である。勘九郎もこの争いで長弘の片腕として大きく働き、享禄3年(1530)に政頼を越前へ追放した事で争いは一段落する。
……が、勘九郎は更に、権力を握っていた主・長弘に土岐政頼と内通した疑いをかけて謀殺するなど、智謀を巡らして徐々に土岐家での発言力を強めていく。長弘死後、長井氏の名跡を継いで長井新九郎規秀(ながい・しんくろう・のりひで)を名乗る。
天文7年(1538)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、ついにその名跡を継いで斎藤新九郎利政(さいとう・しんくろう・としまさ)と名乗った(一般に知られている斎藤姓を名乗ったのはこの時からである)。誤解されがちだが、守護代の地位は引き継いでいない。この頃の斎藤家も2系統に分裂しており、政頼共々越前に追放されていた斎藤利茂が(頼芸に寝返って)守護代に就任している。
国盗り
天文10年(1541)、利政は土岐氏の更なる弱体化を狙い、土岐頼満(頼芸の弟)を宴で毒殺。これを契機として頼芸と利政は対立する。頼芸は(既に兄・土岐政頼は病死していたが)兄の子・土岐頼純やその庇護者である越前朝倉氏と連携することで、利政の排除を狙う。が、天文11年(1542)に利政は先手を打って頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(後の土岐頼次)を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となった。この時、38~48歳ぐらいだったと推測されている。油売りで生計を立てていた流れ者の男が、30年かけてついに一国を我が物としたのである。
この頃には、そののし上がりっぷりと、内政に外交に巧みに生かされるその智謀の恐ろしさが美濃国外にも知れ渡っており、その狡猾さから「マムシ」「梟雄」と呼ばれて恐れられるようになっていた。
その後、頼芸は尾張の織田信秀(信長のとっちゃん)を頼り、美濃に侵攻してくる。南から織田信秀、北から朝倉孝景に攻められる厳しい状況下であったが、天文13年(1544年・あるいは天文16年)の加納口の戦いでは織田軍を壊滅させて撃退。だが流石の利政も長期戦は不利と悟り、和睦。頼芸はめでたく美濃守護の座に復帰した。
………などと甘い話が通じる相手ではないのは御存じの通り。
この隙にせっせと織田・朝倉との和睦交渉を進め、娘の帰蝶を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。こうして頼芸の味方がいなくなった天文21年(1552年)、満を持して頼芸を再び追放し、美濃を最終的に平定する。その2年後、隠居・出家して道三と号し、家督を嫡男・斎藤義龍に譲った。
- ただし、当時の一級史料である「信長公記」には隠居の話が出てこない。道三の号は実際に用いられているので出家はしたのだと思われるが、隠居城に押し込められたわけでは無く、そのまま普通に稲葉山城に住んでいたとの事。
梟雄の最期
しかし、息子・義龍との仲はあまり良くなく、道三自身は次男・孫四郎や三男・喜平次をかわいがっていた。また苦労して平定したとはいえ、美濃には道三の国盗りを内心快く思っていない者も未だ多くいた(隠居したのも、せざるを得なかったのかもしれない)。そんな中で動いたのは、道三の弟とされる長井道利であった。
弘治元年(1555年)、長井道利と共謀した斎藤義龍は突如挙兵して孫四郎と喜平次を殺害する。道三は逃亡するも、旧土岐家臣のほとんどが義龍につき、もはや勝ち目はなかった。翌弘治2年(1556年)、長良川の戦いにて敗死する。享年63。
長年にわたり、悪名高き梟雄の代名詞としてマイナスイメージも強かったが、現代においては大河ドラマにもなった司馬遼太郎の小説「国盗り物語」などで人気を獲得している。
家族
若き織田信長を目にした斎藤道三は「わが子はいずれ信長の軍門に下るであろう」と言ったとされる。道三の死後、義龍の子・斎藤龍興の代に斎藤家は信長によって美濃を追われ、前後して道三の末子である斎藤利治は織田家臣となり、以後本能寺の変で共に討死するまで、信長の嫡子・織田信忠つきの重臣として活動した。(義龍の器量云々はまた別の話ではある。義龍が長生きしていたらどうなっていただろう)
正室は小見の方と呼ばれる女性で、明智光秀の叔母(父の妹)である。帰蝶(濃姫)は彼女が生んだ唯一の子であるとされる。
側室の深芳野は義龍の母で、美濃一の美女と言われる。元々は土岐頼芸の妾であったが、道三への懐柔策として側室に贈られたといわれている。稲葉一鉄の姉とも、丹後守護・一色義清の娘とも。
そして有名な話であるが、斎藤義龍は実は土岐頼芸の落胤では?というウワサが……詳細は義龍の項目を参照の事。
最近の研究 ~ 親子二代説
近年では、美濃国の占拠は道三一代でのものではなく、彼の父親と共に行われた、親子二代の下克上であったという説が有力とされており、学界ではほぼ定着していると言ってよい。というのも、近江の大名・六角承禎が書いた手紙という第一級の史料の中から、そういった内容が確認されたからである(日本史研究において当時の手紙は最も有力な史料のひとつである)。
しかし「国盗り物語」をはじめ、数多くの娯楽作品で彼の国盗り一代記が描かれてきたため、世間一般では今なお従来通りの人物像が広く知られている。
二代の下克上とはどういうものかというと、長井長弘の家臣になって頭角を現す辺りまでは道三ではなく、その父・長井新左衛門尉(ながい・しんざえもんのじょう)の辿った道であったというもの。新左衛門尉の時代に、妙覚寺の僧侶などを経て、土岐家に仕えるに至っていたのである。
道三はそうした父の子として、最初から武士として生まれ育った。新左衛門尉は1530年代初めごろ亡くなったとされる。長弘を討ったりといった国盗りの策略を巡らせる辺り(長井規秀と名乗っての行動)からは、従来の説どおり、道三の活躍であったと考えられている。
戦国大戦
「蝮の毒を食らうが良い!」
Ver1.0から他家スーパーレアで堂々の参戦。弓足軽と計略は好相性、高統率のため攻城との相性も悪くない。
計略の「蝮の毒牙」は、そこそこの広範囲に敵が侵入すると兵力が徐々に下がる妨害陣形。ただし兵力の下がり方は結構緩やか・・・だが本人が弓足軽のため更に射撃ダメージが入ると無視できない減り方になってくる。
道三を筆頭に斎藤家の三代と道三の娘帰蝶は戦国大戦にVer1.1の時点で出揃ったが、全て妨害陣形持ちで統一されている。
関連動画
補足
戦国群雄伝では既に故人なので皆勤賞とはならず。信長の野望では基本的に一代説に則っているが、「100万人の信長の野望」には父・長井新左衛門も登場する。
義理は毎回最低レベル。蒼天録~天道は貫録のギリワン。創造の必要忠誠値も最大の15。野望も恐ろしく高く、とにかく裏切りや独立には注意が必要。だがそれをもって余りある能力値は魅力的。
国盗りイベントは天翔記から、退場イベント・通称「さらばマムシ」は覇王伝からの恒例行事(前者は年代の関係で収録されていない事もあるが)。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 84 | 政治 | 89 | 魅力 | 89 | 野望 | 95 | 教養 | 77 | ||||
覇王伝 | 采配 | 94 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 98 | 政治 | 88 | 野望 | 97 | ||||
天翔記 | 戦才 | 184(A) | 智才 | 198(A) | 政才 | 184(A) | 魅力 | 94 | 野望 | 94 | ||||
将星録 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 96 | 政治 | 93 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 91 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 98 | 政治 | 83 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 89 | 智謀 | 100 | 政治 | 98 | 野望 | 98 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 76 | 知略 | 87 | 政治 | 87 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 76 | 知略 | 87 | 政治 | 85 | 教養 | 71 | ||||||
革新 | 統率 | 85 | 武勇 | 79 | 知略 | 100 | 政治 | 95 | ||||||
天道 | 統率 | 85 | 武勇 | 79 | 知略 | 100 | 政治 | 95 | ||||||
創造 | 統率 | 90 | 武勇 | 76 | 知略 | 99 | 政治 | 82 |
関連項目
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