菊矢吉男単語

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菊矢吉男(きくや よしお)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1915年8月31日生まれ。大阪府出身。

大阪府八尾中学校に進学。エース投手としてだけでなく外野手としても活躍し、1929年春の甲子園大会にも外野手として出場している。

卒業後、関西大学に進学。

1936年大阪タイガースに入団し、同球団の創設期のメンバーとして名を連ねた。外野手として入団したが、球速速さを買われて投手として登録された。

ただ、大阪では出場機会に恵まれず、1937年シーズン途中に大東京軍(→ライオン軍→朝日軍)へ移籍。同シーズンに6勝を挙げると、シーズンにはチーム勝利数19勝に対してその大半となる13勝を挙げるなどエースとして活躍。

1938年には、:7勝18敗、:9勝9敗という成績を残している。

1939年、55試合に登板して、自己最多の16勝(21敗)を記録し、チーム勝利数のほぼ半数を一人で挙げてみせた。

1940年、47試合に登板して防御率2.77とまずまずの成績を残したものの、8勝27敗と大きく負け越し。チームの方も24勝76敗で首位に50ゲーム差をつけられる最下位(8位)に沈んだ。

1941年開幕後、応召を受け退団。

1944年に古巣の朝日軍に復帰し野手を中心に起用され、21試合に出場して、打率.345記録している。同年限りで退団。

1946年ゴールドスターに入団し、内野手として53試合に出場したが、同年を最後に現役を引退してる。

引退後は高校野球監督など、アマチュア導者として活動。

1990年12月27日に死去、享年75歳

人物・エピソード

威力のある重い球を武器に打者を獲じせていった剛速球右腕。一方で、年間最多暴投4度、シーズン与四球100以上を5度記録するなど、制球面には難があった。

1939年にはシーズン与四球209記録しているが、これはNPB歴代7位の記録である。

入団当初の大阪では沢村栄治対策として、速球の菊矢を打撃投手として起用し、マウンドの2、3歩前から投じさせていたという。

通算成績

投手成績

通算:7年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 210 99 10 60 91 --- --- .397 1316.1 837 613 642 423 2.89

打撃成績

通算:8年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 343 948 888 67 189 7 106 3 4 2 49 5 117 --- .213 .257

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