西園寺公経(さいおんじ きんつね、1171~1244)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の貴族・歌人である。
概要
源頼朝の妹婿・一条能保の娘を正室に迎えたことから、朝廷の中では珍しい親幕府派の公卿となる。源実朝の暗殺後は、外孫の九条頼経を鎌倉幕府の第四代征夷大将軍就任に尽力する。承久の乱では、朝廷側の情報を鎌倉幕府に密かに伝える役割を果たし、後鳥羽院からは幕府との関係から幽閉されるものの、幕府の勝利後はその功績から栄達を果たし、承久の乱の翌年には太政大臣に就任した。
その後も、公経は幕府との関係のより一層強め、幕府との交渉役である関東申次を務める。頼経の他にも、九条家が分裂した九条教実(後九条家の祖)、二条良実(二条家の祖)、一条実経(一条家の祖)の祖父となり、孫娘を後嵯峨天皇の中宮とし、後深草天皇・亀山天皇の曾祖父となるなど、朝廷で絶大な権力を握った。
公経の姉は藤原定家の後妻となり、藤原為家を生んだことから、定家とは交友が深かった(定家から見れば、公経は義弟にあたる)。また、晩年の定家を庇護し、そのスポンサーとなって彼の活動を支援した。定家が記した日記「明月記」によると、公経は別荘の吹田殿に有馬温泉の湯をわざわざ運ばせて入浴するなど、源融(河原左大臣)も真っ青の豪遊っぷりを見せたと言う。承久の乱で多くの貴族が没落する中、事実上の一人勝ちとなった公経の栄華は目を見張るものがあり、権力をほしいままにする様子は平清盛以上だと評された。勝ち組の公経を妬む者も多く、彼を奸臣と罵る者も多かったらしい。
この世の春を謳歌する公経だったが、1231年に病を得て出家する。この頃彼は、百人一首にも載せられた「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」を詠んでいる。病気や老いによって自分の栄華も永遠には続かない無常観を、上の句の華やかな情景と、下の句の年老いたわが身を嘆く対比がコントラストに描写している。若い頃から朝廷の中で、平家一門や後鳥羽院の繁栄と没落を目の当たりにした公経にとって、決して彼らは他人事ではなかったに違いない。なお、上の句に「雪ならで~」とあるが、ここでは散っていく花(=桜)が雪のようだと比喩している表現であり、冬の歌ではなく春の歌であることに注意したい(漫画「ひだまりスケッチ」と、同アニメ「ひだまりスケッチ×ハニカム」では、このネタがそれぞれ原作7巻・アニメ10話で使われている)。
公経は74歳で天寿を全うしたが、その後西園寺家は、鎌倉幕府滅亡などによるお家存亡の危機に立たされながらも家名を保ち、本家からは総理大臣となった西園寺公望や、分家の橋本家からは和宮などの著名人を輩出している(但し、途中に養子などが入っている)。また、家名となった別荘のひとつである西園寺は、後に足利義満がこの地を譲り受け、金閣寺(鹿苑寺)を建立している。
関連項目
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