西園寺公経単語

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西園寺公経さいおんじ きんつね、11711244)とは、平安時代後期鎌倉時代前期の貴族歌人である。

概要

百人一首96番の作者西園寺の祖。

源頼朝婿一条保のを正室に迎えたことから、朝廷の中ではしい幕府卿となる。源実朝の暗殺後は、外孫の九条頼経を鎌倉幕府の第四代征夷大将軍就任に尽力する。承久の乱では、朝廷側の情報鎌倉幕府に密かに伝える役割を果たし、後鳥羽院からは幕府との関係から閉されるものの、幕府の勝利後はその功績から栄達を果たし、承久の乱の翌年には太政大臣に就任した。

その後も、経は幕府との関係のより一層強め、幕府との交渉役である関東申次を務める。頼経の他にも、九条が分裂した九条教実(後九条の祖)、二条良実(二条の祖)、一条実経(一条の祖)の祖となり、孫を後嵯峨天皇の中宮とし、後深天皇亀山天皇の曾祖となるなど、朝廷で絶大な権力を握った。

経の藤原定家の後妻となり、藤原を生んだことから、定とは交友が深かった(定から見れば、経は義にあたる)。また、晩年の定護し、そのスポンサーとなって彼の活動を支援した。定が記した日記「明記」によると、経は別荘の吹田殿有馬温泉の湯をわざわざ運ばせて入浴するなど、融(河原左大臣)も遊っぷりを見せたと言う。承久の乱で多くの貴族落する中、事実上の一人勝ちとなった経の栄を見るものがあり、権力をほしいままにする様子は平清盛以上だと評された。勝ち組経を妬む者も多く、彼を奸臣と罵る者も多かったらしい。

この世の謳歌する経だったが、1231年に病を得て出する。この頃彼は、百人一首にも載せられた「さそふ の庭の ならで ふりゆくものは わが身なりけり」を詠んでいる。病気や老いによって自分の栄永遠には続かない無常観を、上の句のやかな情と、下の句の年老いたわが身を嘆く対コントラストに描写している。若い頃から朝廷の中で、平家一門や後鳥羽院の繁栄と落をの当たりにした経にとって、決して彼らは他人事ではなかったに違いない。なお、上の句に「ならで」とあるが、ここでは散っていく(=)がのようだと喩している表現であり、の歌ではなくの歌であることに注意したい(漫画ひだまりスケッチ」と、同アニメひだまりスケッチ×ハニカム」では、このネタがそれぞれ原作7巻・アニメ10話で使われている)。

経は74歳で寿を全うしたが、その後西園寺は、鎌倉幕府滅亡などによるお存亡の危機に立たされながらも名を保ち、本家からは総理大臣となった西園寺望や、分橋本からは和宮などの著名人を輩出している(但し、途中に養子などが入っている)。また、名となった別荘のひとつである西園寺は、後に足利義満がこの地を譲り受け、金閣寺鹿苑寺)を建立している。

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