承久の乱単語


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承久の乱とは、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱である。

源実朝の死による波紋

この乱は非常に様々な要因が交わっていてややこしいことになっている。だが、その端緒となるのはやはり、武協調路線を推し進めていた鎌倉幕府の征夷大将軍源実朝の、承久元年(1219年)甥の公暁による暗殺である。かつてと異なり実にある程度の政治意欲がされるようになった昨今、そもそも武協調路線自体源頼朝時代末期の政策であり、官位上昇自体も摂関などとべてもことさらおかしいものでもなく、中央にとって彼は話の分かる相手として機していた人物だったと考えられる(やや後鳥羽院に傾倒してはいたけど)。そのような実の死は、後鳥羽院からすれば交渉の余地のある相手を失ったに等しい事件だった。

源実朝には長年子供が生まれず、彼の生前からすでに皇族将軍を新たに迎える方向で北条政子などは動いていた。だが後鳥羽院からすれば将軍を失い北条氏トップとなった幕府は不信感を覚える存在だった。後鳥羽院は、試しに様子見で源実朝時代はある程度許されていた地頭の撤収要請を、よりにもよって北条義時の領地に対して行うが、案の定断られそれまでの武協調路線が次第に破たんしかかっているという自覚を得ないわけにはいかなかった。

さらに幕府は動揺が続く。実亡き後彼を引き継ぎ清和源氏将軍にすべきだという勢力が挙兵、もしくは逆に粛清される事件が続いたのである。実のいとこの野時元の乱で時元とその・頼全が死亡源頼家の子息であったの誅殺、一方院側でも大内守護の頼茂を誅殺するに至った。

面下で動きほぼ実現に向かっていた皇族将軍の推戴は北条時房軍事力を伴って上したにもかかわらず失敗に終わり、九条の出身で頼朝血縁にあたる九条頼経、という摂将軍を迎えることになったのである。

そして乱へ

後鳥羽院は次第に反幕府への姿勢をあらわにする。西面の武士の活動が活発化する一方で、関東への調をたびたびおこなうようになったのである。承久2年(1120年)は前年の将軍後継問題や地頭罷免問題は穏便に済まされてはきたのだが、次第に京都でも鎌倉でも災が相次ぎ不穏な空気に包まれ始めた。後鳥羽院源氏将軍であった卿・一条などのラインを使い、次第に兵力を整え始めていた。

また新幕府であった土御門を筆頭にした村上源氏九条西園寺などが推戴する土御門上皇ではなく、坊門高倉といった反幕府勢力の核となっていた順徳天皇の子息・懐成王(仲恭天皇)の即位を着々と進めていく。こうして着々と布石は打たれ、ついに承久3年(1221年)の乱へと向かう。

承久の乱

4月20日仲恭天皇が即位した。その傍らで幕府卿に秘密に、面下で着実に乱の計画は進んでいた。そして5月14日、武力動員が行われ、京都守護である大江広はこれに応じたものの、北条義時の縁者である季は抵抗し殺される。そこまでは織り込み済みだった。さらに幕府である西園寺公経西園寺実氏子を閉し、諸の守護、地頭北条義時追討の院宣を送る。

後鳥羽院はあくまでも北条義時を取り除き幕府の是正を図る程度の計画だったのである。これに応じて北面西面の武士のみならず、代々軍事貴族であったものが多い西の守護たちも動員された。

しかし関東では三浦胤義が院側についたにもかかわらず、三浦義村が院宣を幕府首部の前で披露。こうしてあの有名な北条政子演説が行われる。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大朝敵を征罰し、東を創してより以降、官位とひ俸祿ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これからんや。るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、く秀康・胤義等を討取り三代軍の遺を全うすべし。但し院中にらんと慾する者は、今申し切るべし。

――『吾妻鏡』より

この演説を見ればわかる通り、幕府側では後鳥羽上皇的は討幕にあるようにすり替えられ、院の作戦を逆手に取られてしまったのである。さらにたとえ王権の命であったもそれが「非義」であれば従わなくてよいという、これまでにはなかった思想も現れ始めていた。

しかしそうは言っても打って出るか、守りに入るかを決断するのは難しい。しかし、大江広元三善康信といった下りの官人たちが乱の泥沼化を防ぐために電撃作戦し、最終的に北条政子は攻めを実行することを決断する。こうして東海道東山北陸道3軍に分け出発した。その構成は以下のとおりである。

この電撃作戦は院側の予想外の動きだった。彼らは軍勢を整えてはいたものの、東の敵味方がはっきりするまで様子見にしようとしたのだ。この誤算は大きかった。鎌倉側の結束を聞いた後鳥羽上皇木曽川戦線と瀬田・宇治の二重の防衛ラインを敷く。

さらに東山北陸道にも軍を派遣した。その構成は以下のとおりである

官軍側は10倍近い敵の兵力に対して東海道に軍勢を集中させ、これに対処しようとした。しかし久綱、山田重忠といった奮戦するものもいたが、木曽川戦線の官軍はあっさり崩壊、もはやすでに勝敗は決していた。

そして6月13日・14日の宇治・瀬田戦線での攻防戦は始まる。しかしまたしても戦力の分散配備を強いられた院側は全に劣勢となり6月15日には官軍の敗北の方が比叡山の後鳥羽上皇のもとに入ったのである

戦後処理

北条泰時の戦勝報告は6月23日には鎌倉に伝わっていた。こうして六波羅に居を構えた幕府軍は、占領軍として戦後処理を始めたのである。

皇族

公家

僧侶

武士

後日加筆予定

乱の結果起こった守護の交代

前任者 後任者
京都守護 六波羅探題
河内 京都守護 三浦義村
和泉 後鳥羽上皇御計 逸見?
摂津 ?(大内惟信?) 長沼宗政
大内惟信
伊勢 大内惟信 北条時房
小野盛綱 中条
近江 佐々木広綱 佐々木信綱
美濃 大内惟信
若狭 々見忠季(鎌倉方の戦死者) 島津忠時
越前 大内惟信? 島津忠久
丹波 大内惟信 北条時房
安達 常陸
出雲 安達 佐々木政義?
石見 佐々木広綱?
安芸 惟宗孝 武田信光
紀伊 後鳥羽上皇御計 三浦義村
淡路 佐々木経高 長沼宗政
佐々木高重 小笠原長清

その後…

仲恭天皇の後は、守貞王が後高倉院となり彼の息子の後天皇が即位することとなった。幕府はこの後六波羅探題を設置して西にも力を増したが、西の多くの守護地頭方に参戦したことでこれまでも次第に消えつつあった従来の畿内軍事貴族がほぼ落し、東武士が新補地頭として新たに西に進出していったのである。

また後鳥羽上皇と結びついて格を上昇させていた院近臣北面西面の武士の多くが落し、代わって西園寺のような幕府卿が復権を果たしていった。

こうして鎌倉幕府はこれまでにない危機を乗り切り、長かった内乱にも終止符が……打たれなかったからあれがああしてこうして…(おまけに外からなんかやってくるし)。

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承久の乱

37 ななしのよっしん
2022/12/20(火) 16:29:40 ID: 8DLhRlWaZq
これ朝廷側はどうすりゃ勝てたの?
兵力差の時点で論外?
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38 ななしのよっしん
2022/12/20(火) 22:48:05 ID: 6iad66Imtw
やらない一択
結果を知ってる異世界転生鳥羽なら北条と仲良くすると思われる。
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39 ななしのよっしん
2022/12/27(火) 15:11:07 ID: 4WlVoRyu1I
日本史教科書では数行ないし1ページ程度で終わってしまい、大多数の学生にとっては「鎌倉幕府が権力地盤を固めた」というだけの出来事、下手をすればテスト勉強に向けた年号語呂合わせの方が印に強い事件と言えるだろう。だが実際は、当時の日本における既成概念・統治体制を大きく変容させる契機となった戦乱であり、後の歴史に絶大なをもたらした転換点である。

とまで、アニヲタwikiには書かれてる。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/52894.htmlexit
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40 ななしのよっしん
2022/12/28(水) 08:38:54 ID: XpttzlNme1
海外だとなんで皇室はこの辺で止滅亡しなかったんだ?って思いそう→この乱を聞いた時
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41 ななしのよっしん
2022/12/30(金) 23:54:14 ID: 6iad66Imtw
系の王族と王族の傍系が権力を奪い合って王権が滅びる方がおかしいだろうよ
王権の存在そのものを叩き潰すのは、一向一揆みたいな王族の血が流れてない勢力
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42 ななしのよっしん
2023/07/10(月) 00:42:09 ID: 4bywGdGeab
何だかんだ鎌倉側だって動揺に動揺を重ねていたみたいだし
院側も決死の覚悟で戦う意志を示せばもしかしてもしかしたんじゃないかと思わなくもない

朝敵認定されながらも北条氏一門が決死の出をした鎌倉武士団と
院宣を出して後は武士任せっていう旧態依然の院側じゃそりゃ日和見武士は前者に付くわなという
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43 ななしのよっしん
2024/04/09(火) 07:53:19 ID: 2i4U2aAQAt
後鳥羽院が御自身で出なされて、勝ったとしても戦功のあった武北条の代わりやらせなきゃいけない位には旧体制ガタガタだったの?。
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44 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 22:11:42 ID: PSrlLkX3Dl
このころの前提として、「しょせん当時の皇室ごときの力では北は東北から南は九州まで遍く恩恵を行き渡らせる事はできない」というのがまず出発点。
京都周辺とは緊密に連携してるけど関東とかでもう怪しくて、さらに遠くなると基本的に単なる租税泥棒
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45 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 22:31:36 ID: nMCAg/c/pn
源氏側についてるんだな
斎藤ってのは斎藤道三の先祖か?
佐々木太平記とかの佐々木の先祖か?
大江ってことは大江氏の者か 族を殺す羽になったのか
佐々木氏はよく盛り返したな
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46 ななしのよっしん
2025/03/31(月) 02:00:11 ID: ni2HsQl827
>>45
佐々木氏はいわゆる四兄弟の一人と息子世代の一部が朝廷側に着いたが
それ以外は変わらず鎌倉側だから盛り返すってほど辛い状況に陥ってはいない気も
そもそも兄弟で別営になるっていうのは当時の生き残り戦略の一つだっただろうし
実際戦後近江守護が広綱(朝廷側の)→信綱(鎌倉側の)っていうのを見るとわかる通り
一族のかが別営についたからほかの一族も連座で罪に問われるって時代じゃない
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