赤松則祐単語

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赤松則祐13111371)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
くから出していたため下の名前は「そくゆう」と呼ぶのが一般的であるが、「のりすけ」という呼称も根強い。

概要

赤松則村赤松円心)の三男。くから比叡延暦寺に入っており、護良親王を深めていた。そのため元弘の乱では護良親王行動を共にし、1333年後醍醐天皇が隠岐を脱出すると、父親である円心に宮方として参戦するよう旨を届けた。

建武政権では赤松氏護良親王失脚と同時に冷遇され、足利尊氏の離反に付き従うこととなる。尊氏の九州落ちの際には播磨で新田義貞を足止めする役割を担い、再上を側面支援した。1350年に赤松円心が、1351年に長赤松範資が亡くなったため、彼が播磨守護に任じられた。

この時期はちょうど観応の擾乱にあたり、彼は尊氏方として活動をする。ところが尊氏と直義の和が一時なった際、である佐々木道誉とともに護良親王の遺児・赤松王を奉じようとする。そこで、尊氏は赤松則祐を、足利義詮佐々木道誉を攻めたが、これは足利直義を挟撃する策であり、それを察知した直義が北陸方面へと逃走したのだ。しかし、この王の擁立はどうも本気でやっていた節があり、赤松氏範は南に降ったまま王と行動を共にしている。
ここで見たようにかつての護良親王とのパイプは依然機しており、正の一統の際などに南との交渉を担っている。

その後は播磨と接する伯耆に基盤を持った山名氏との戦いが多くなり、1353年山名時氏楠木正儀とともに京都を制圧した際は播磨から上してこれにあたっている。さらに1354年には但から侵攻してきた山名軍を打ち破り、1355年の足利直冬京都制圧の際は播磨に逃れてきた足利義詮を迎え入れている。
1356年には赤松貞範が美作守護となり、赤松範資が任じられそのまま子である赤松範に継承されていた摂津も併せ、三カの守護となったのである。

足利義詮の時代になっても依然山名時氏と戦い、楠木正儀細川清氏らがを制圧した際は足利義満を自領に避難させている。

1371年に亡くなった際には関白近衛嗣から「赤松則祐師他界と々、随分の大名の上、武のための忠功ほかに異なるものか、惜しむ可し」と評された。

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赤松則祐

1 ななしのよっしん
2017/11/24(金) 23:35:40 ID: ZLwPgOH5E9
彼の青春時代護良親王とともにあり、ドライ政治的判断で恨みを押し殺せない年若い時期に尊氏のせいで(本当は自業自得だが)護良親王を失った。

亀田俊和氏の摘通り、南への降は本気その物で、いつか尊氏に復讐してやるという想いを抱き続けていたと考える方が論理的自然だろうと思う。
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2 ななしのよっしん
2018/12/21(金) 19:46:25 ID: Whl0WBe4s5
どうかな。感状山の戦い、正一統、足利直冬京都占領などと、尊氏・義詮子は何度も絶体絶命に陥っているけど
は常に尊氏・義詮側に立っている

護良親王への個人的な感情はありそうだけど、赤松氏としては
恩賞も寄越さない南とちゃんと奉に報いる尊氏のどちらに就くべきかはわきまえていたんじゃ?
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3 ななしのよっしん
2021/02/19(金) 17:07:45 ID: PQzuWWle96
寧ろ後醍醐天皇護良親王
邪険に扱ったから南を見限った
とかありそうである
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