足利直冬(1327?~1400? or 1387?)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
足利尊氏に最後まで認知してもらえなかった隠し子。
概要
上述の通り足利尊氏の庶子らしい。若いころ一夜の逢瀬によって越前局との間に生まれた子という。そのため生年についてはよくわかっておらず、応永七年、つまり1400年に74歳で没したという記録から1327年生まれと逆算されている。
成長した足利直冬は東勝寺の喝食として過ごしていたが、1345年ごろ還俗して上京する。しかし足利尊氏に認知されず、哀れに思った弟の足利直義が養子にした。1348年時点で従五位上左兵衛佐の官位にあり、足利氏の一門としてきちんと取り扱われたようだ。
やがて紀伊の南朝勢力討伐に成功を収めると、山陽・山陰を統括する、一部の研究者からは長門探題とすら呼ばれるほどの権限を与えられ西国に赴く。しかし観応の擾乱が勃発すると直冬は養父・足利直義の側に立ち、備後国鞆で勢力を増していった。このことは高師直派には脅威に移り、直義が一時的に没落すると、直冬も九州に没落させられたのである。
当時の九州は一色範氏、一色直氏父子が懐良親王と抗争の真っ最中であり、直冬は一色氏の支配に不満を持っていた同じ北朝の少弐頼尚に担ぎ出され第三勢力となったのである。頼尚の娘婿になった直冬は北九州一帯に勢力を拡大させ、1350年に尊氏ははじめ高師泰を、続いて自らが軍を向かわせ討伐しようとしたのだ。
しかしここで足利直義が出奔、直義の南朝帰順、高一族の惨殺と目まぐるしく情勢が変わり、足利直冬も晴れて鎮西探題として直義の政権下で正式な存在に代わる。ところが栄光は長く続かなかった。足利尊氏によって正平の一統がなると、足利直義派は今度は討伐の対象となり、九州で尊氏派だった一色範氏も尊氏同様南朝の懐良親王と協力して直冬に対抗したのである。直冬は九州を持ち超え耐えることができず、1352年に中国へと転進した。
当時の中国地方には南朝方となっていた大内弘世がおり、足利直冬は彼のもとで旧直義派の旗頭となった。そのため1355年には楠木正儀とともに京都制圧を果たし、すぐに没落するものの幕府にとっては油断ならない存在となったのである。
しかし、やがて山名時氏、大内弘世といった中国地方の有力大名が帰順していくと、足利直冬の活動は下火になり、石見に隠棲したまま晩年を過ごしたとされる。没年も正確にはわかっておらず、彼の5人いたとされる子も具体的な事績は不明である。
ところが孫の義尊が嘉吉の乱で赤松氏に担ぎ出されることになるのだが、それはまた別の物語である。
関連項目
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