にぎつ丸とは、大東亜戦争中に大日本帝國陸軍が運用した陸軍特種船甲型の1隻である。1943年3月30日竣工。陸軍空母あきつ丸の姉妹船だが航空艤装を持っていない純然な艦艇。1944年1月12日、沖縄東方海域にて米潜水艦ヘイクの雷撃を受けて沈没。
1935年に竣工した強襲揚陸艦の先駆け的存在――神州丸は陸軍にとって成功とも言うべき傑作であった。その実績を踏まえて16隻の追加建造を求めたところ、予算や建造枠の問題から11隻のみ認可が下り、このうち7隻が輸送揚陸能力を備えた上で外見を貨客船に似せた甲型として、残り4隻は、神州丸では実現しなかった航空機運用能力を付与した丙型として建造される事に。
こうして1942年1月に丙型1番艦あきつ丸が誕生。しかし、この頃になると航空機の高性能化・大重量化が進んでいて、陸軍のノウハウで付けられる航空艤装ではマトモに運用出来ない事が発覚してしまう。このため2番艦(後のにぎつ丸)は思い切って航空艤装を取り除いた甲型での建造となった。
戦争も佳境に入ると米潜水艦の跳梁が激しくなり、丙型でも運用可能なカ号観測機や三式連絡機が対潜哨戒に有用だと分かると、残り2隻(ときつ丸、熊野丸)は予定通り丙型での建造となり、唯一にぎつ丸のみ甲型で建造されるという特殊な生まれになった。このような経緯から他の甲型とも形状が少し異なっている。
要目は9547トン、全長143.7m、全幅19.5m、出力1万3435馬力、最大速力20ノット。兵装は八八式7.5cm単装高射砲2門、三八式7.5cm野砲10基、九六式25mm高角機銃6基、水中聴音機。搭載艇として大発動艇を持つ。
1942年3月10日に335番船の仮称で播磨造船相生工場で起工。当初はあきつ丸と同じ航空艤装を持つ特種船丙型となるはずだったが、建造途中で艤装を持たない甲型に設計変更されている。同年11月28日に進水するとともににぎつ丸と命名。そして1943年3月30日に竣工を果たした。名目上は日本海運所属の本船を陸軍が徴用した事になっていた。母港は陸軍船舶部隊(通称暁部隊)の司令部がある広島の宇品港。
4月12日、最初の輸送任務に従事するため弾薬や戦車第8連隊等を積載して宇品を出発、佐伯湾の深島にて第31号哨戒艇と合流したのち、4月19日に湾内を出港。豊後水道を抜けるまで護衛を受け、太平洋に出た後は単独でラバウルを目指す。ガダルカナル島争奪戦に敗れた後も帝國陸海軍は防衛線をコロンバンガラ島まで下げてソロモン諸島の連合軍と干戈を交えており、ラバウルは南東方面における物資集積地となっていた。にぎつ丸が運んでいる増援はまさに前線部隊が渇望してやまないものだった。4月27日にパラオへ寄港。5月1日に出港してラバウルに向かい、5月3日にシンプソン湾へ到着して積み荷を揚陸するが、休む間もなく即日出発。5月4日から6日まで再びパラオに寄港したあと内地帰投のため出発。5月14日午前11時30分に本土近海で第46号哨戒艇と合流し、翌15日に深島沖で第46号哨戒艇と別れて無事宇品へ帰投。最初の輸送任務を成功させた。だが、にぎつ丸に休む暇など与えられなかった。
帰投から翌日の5月16日に宇品を出発し、佐伯湾に回航。そして5月24日に佐伯を出発するが、荒天の影響で護衛の第46号哨戒艇に危害が及びそうだったため、正午頃に深島沖で分離。単独で豊後水道を南下して太平洋に進出する。前回同様に5月28日にパラオへ寄港したのち30日に出発、そして6月5日に目的地のラバウルへと到着して運んできた積み荷を降ろす。翌6日午前4時30分、しあとる丸の護衛(途中まで)を受けてラバウルを出発してパラオに向かい、6月14日に寄港・即日出港、内地への帰路に就く。6月16日午前10時30分より敷設艇由利島がにぎつ丸の護衛を開始し、16時45分からは敷設艇怒和島が護衛に参加、後に海防艦壱岐も護衛に加わるなど大所帯になった。3隻に護衛されながら6月17日に宇品へ帰投。
6月26日に弾薬を満載して宇品を出発。今度はラバウル方面ではなく朝鮮半島に向かい、翌27日に釜山へ入港して陸軍部隊を積載、6月30日に何事もなく宇品への帰投を果たした。7月1日、オ703船団とともに宇品から佐伯へ回航。同時期、帝國陸軍はニューギニア東部の敵飛行場を落下傘部隊で占領する計画を立て、参加させる挺進連隊の一部をにぎつ丸が輸送する事になった。
7月7日14時、駆逐艦海風と敷設艇怒和島が護衛するオ703船団(にぎつ丸、特設タンカー東亜丸、輸送船青葉山丸)に加入して佐伯を出港。7月8日に怒和島が護衛より離脱、7月10日午前6時にトラック諸島へ向かう東亜丸が分離して船団は3隻にまで減少。幸い敵襲を受ける事無く7月13日にパラオへと到着した。ここで挺身隊1200名を揚陸すると同時に船団の再編成を実施。7月17日、第37号、第38号、第39号駆潜艇が護衛するソ705船団に加入してバラオを出港、7月24日14時50分にラバウルへと到着して物資を揚陸した。7月26日14時、第16号と第17号駆潜艇が護衛するオ604船団に加入してラバウルを出発、9ノットの速力でパラオに向かい、8月1日に到着。現地で船団の再編成を行う。8月4日、水雷艇鳩が護衛するフ407船団に加入してパラオを出発し、8月10日に本州南方で怒和島が護衛する第8拓南丸と第7多摩丸と合流、そして8月11日に宇品まで帰り着いた。長い輸送任務を成功させたにぎつ丸は相生工場に入渠して整備を受ける。
10月10日、陸軍特種船摩耶山丸や護衛の駆逐艦春風でオ302船団を編制して宇品を出発。佐伯湾を経由してパラオへの航海を始める。10月18日にパラオ到着。船団名をフ202船団に変えて翌13日にパラオを出発、いずれも高速を発揮出来るため16ノットで危険海域を駆け抜け、10月27日に宇品へ到着。そしてすぐさま翌日に宇品を出発して摩耶山丸と11月5日に釜山へ入港。中支那派遣軍から抽出する兵力を積載して11月8日に出港、第36号哨戒艇に付き添われながら、その日のうちにサ17船団の集結地となっている六連へ移動した。
11月10日15時、第36号哨戒艇、駆逐艦呉竹、給油艦足摺が護衛するサ17船団(にぎつ丸、五洋丸、興川丸、みりい丸、うすりい丸、鴨緑丸、摩耶山丸、旭東丸)に加入して六連を出港、11月14日16時に高雄へ到着した。11月19日に高雄を出発し、11月21日にシンガポールに到着。11月25日にセブ島へ到着した時に船団が解散となったため、摩耶山丸とともに翌26日に出発、12月1日14時にマニラへ入港する。12月3日午前6時30分、高雄に向かうべく摩耶山丸とマニラを出港。14時に第780船団から分離してきた海防艦干珠が護衛に加わった。12月5日午後12時30分に高雄寄港。干珠と別れ、12月15日15時に敷設艇怒和島が護衛する第227船団に加入して高雄を出港、基隆に寄港した際に帝洋丸が船団に加わり、12月16日午前7時40分に出港。門司を目指すが、途中でにぎつ丸が分離してパラオに寄港。12月19日に出港して内地に向かった。
12月31日23時、第34号駆潜艇、海防艦壱岐、にぎつ丸でオ101船団を編制して佐伯を出発。
1944年1月6日正午にパラオへ入港。現地で第12独立工兵連隊約2000名を乗艦させ、駆逐艦天霧とフ901船団を編制して1月9日午前9時にパラオ西水道を出港、宇品を目指す。
1月12日19時頃、沖大東島近海で水上航行中の米潜水艦ヘイクから4本の魚雷が放たれ、そのうち2本がにぎつ丸に命中。たちまち機関室が満水になって僅か8分で船尾から沈没した。直ちに天霧が対潜制圧に向かい、37個の爆雷を投下しているがヘイクに逃げられている。その後、海面に漂う生存者の救助を実施。兵員456名、船砲隊83名、乗組員35名が戦死した。
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最終更新:2025/12/23(火) 09:00
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