「シンガポール華僑粛清事件」とは、1942年2月後半にシンガポールで起きた、日本軍による中国系住民の大量殺害事件である。
「シンガポール華僑虐殺事件」「シンガポール華人虐殺事件」「昭南華僑粛清事件[1]」などとも呼ばれる。
非常に簡単にまとめると、第二次世界大戦中にシンガポールを陥落させて占領した日本軍が、抗日運動に与していると目した華僑(華人。中国系住民)らを大量に殺害した事件。
シンガポールが陥落した1942年2月15日の3日後に、抗日華僑などを粛清する命令が発令され、その命令に基づいてシンガポール中の18歳から50歳までの全ての男性華僑がシンガポール中の5か所に分かれて集まるように指示された。そして集められた華僑は選別され、抗日分子と判断された者は「厳重処分」、すなわち処刑されたとされる。
このとき「多数の反乱分子を処刑するべきである」と考えた参謀らからの叱咤激励を受けて「数をこなさなければならない」という圧力を感じた現場の軍人によって「処刑すべき対象」を選別する際の手続きが粗雑なものとなっていたことが証言されており、無関係の住民も多数が巻き込まれて処刑されたと目されている。
現代でもブラック企業が不祥事を起こした際に「上司からのパワハラ的な要求に応えざるを得なかったために、不正に手を染めた」といったケースが報じられることがある[2]が、その構図を考えると近いものがあるかもしれない。
華僑粛清に対する軍の方針は強硬で、その鼻息は荒く、馬奈木参謀副長も現地を視察したが、特に辻参謀、朝枝参謀の現地指導は、常軌を逸したものがあった。その実情を摘記しよう。軍作戦主任参謀辻政信中佐は、各検問所を廻り指導したが、二十一日横田隊長の案内により大西隊検問所を視察し、隊長大西中尉を呼び、
辻参謀 容疑者を何名選別したか。
大西中尉 只今のところ七十名であります。
辻参謀(大声で叱咤し) 何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ。と激励した。もちろん、それは本気ではあるまいが、たとえ冗談であったとしても、これには大西中尉も驚いた。しかし軍参謀は憲兵分隊長の直接の上司ではない。中佐参謀と中尉とでは階級も違うので、その指示には従順であるが、承りおくの、マイペースは崩さなかった。辻参謀は大西隊のみならず、久松隊その他各検問所を廻り、同様強硬な指導を行っている。また朝枝繁春参謀は夜間わざわざフォードカンニングの憲兵隊本部に到り、軍刀をひき抜き「起きろ!起きろ!憲兵は居ないのか」と怒鳴り、さらに、「軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切ってやる」などと憲兵に対する嫌がらせをし、強引な指導をした事実がある。
また作戦軍として占領後、掃蕩作戦を行い、抗日分子や不逞者を一掃し、危険物を排除することは当然の任務である。しかるに強硬参謀の意見に引廻され、十分な取調べもせず、即時厳重処分に付したところに問題があり、汚点を残した。[3]
ただし同時に、そういった軍上層部からの過大な処刑数の要求についてやり過ごすために「処刑数を水増し報告した」というグダグダな証言もまたなされており、犠牲者数が不明瞭なものとなっている。
(前略)憲兵も他部隊も、強硬参謀に押しまくられて、水増し報告をしたのは事実である。この事件の戦争裁判で検事側は、処刑人員六千名と申立てた。しかし弁護側が得た華僑協会の調査でも、三千名に満たず、また裁判中弁護側の得た情報でも、粛清の犠牲者は一千名足らずであった。だが、その後辻参謀が将校団に講話した際、シンガポールとジョホールで抗日華僑五千名を粛清したと述べた事実がある。これはおそらく辻参謀が、憲兵や部隊の水増し報告を集計したものであろうが、それでも、五千名を超えなかったことを証明している。[4]
戦後は責任者の罪を問う裁判も行われたが、2名の絞首刑と5名の終身刑が下されたのみで、シンガポールの華人社会からは被害者の多さに対する死刑判決の少なさに不満の声が挙がったという。ただし、これには「別件の裁判で既に死刑となっていた者が数名」「辻参謀は逃走に成功していた」「朝枝参謀は満州出張中にソ連軍に捕まりシベリア抑留中だった」等の理由で、主導的な立場だった高級軍人らの中にそもそもこの裁判で裁くことができなかった者が複数いたことも関係している。ちなみに、前掲の引用文章はこの裁判で終身刑となった憲兵隊長の「大西覚」による戦後の回想録によるものである。
その後、1962年に土中から人骨や遺留品が発見され、それをきっかけに1963年から1966年にかけて発掘調査が行われ、この事件で殺害されたとみられる607壺分の人骨が発見されたとされる。そのうち428壺分の人骨が発見された土地では保存状態が良かったので2176人分と判明したという。ここから全体の「607壺」は3000人程度相当か[5]と推測する意見もあるようだ。
犠牲者数の推計としては、最小で1000人前後~2000人以下と推測する説の他、5000人説、6000人説、2万5000人説、5万人説などがあるが、いずれも明確に集計されたものではなく「間接的な証拠に基づく推計」でしかないようだ。結局「数千人から数万人の多数」としか言えない。上記のように3000人程度と推定される量の骨が発見されていることから「2000人以下」は少なく見積もりすぎていると思われるが。
上記の人骨発見をきっかけにシンガポールでは日本に賠償(「血債」と表現された)を求める声が沸き上がった。これを「シンガポール血債問題」という。交渉の末に1967年9月21日に日本は補償協定[6]に調印、無償供与として2500万シンガポール・ドル[7]相当を支払い、さらに同額2500万シンガポール・ドルの「特別の条件による借款」で支援することとなった。
同じ1967年の2月15日には、数年かけて建設されていた「日本占領時期死難人民記念碑」の落成式が行われた。補償協定の調印前に完成していることからもわかるように、この碑の建設には日本政府からの賠償や支援は関わっていないようだ。碑の地下には前述の発掘人骨が安置されており、個別の氏名も判然としない大量の故人の墓標とも言える。
この碑には以下の文面が刻まれている。
一九四二年二月十五日至一九四五年八月十八日日軍佔領新嘉坡我平民無辜被殺者其數不可勝計越二十餘年始得收斂遺骨重葬於此並樹豐碑永志悲痛
(和訳例:1942年2月15日から1945年8月18日まで日本軍はシンガポールを占領し、我々民間人の中で罪なく殺された者の数は数え切れないほどであり、遺骨が収集されてここに再埋葬され悲しみを追悼するこの記念碑が建てられるまでに20年以上かかった)
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最終更新:2025/01/08(水) 04:00
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