ジャージー規則 単語


ニコニコ動画でジャージー規則の動画を見に行く

ジャージーアクト

3.1千文字の記事

ジャージー規則(Jersey Act)とは、かつてイギリスに存在したサラブレッド定義にまつわる規則である。規則名は当時の英国ジョッキークラブ会長だった第7代ジャージ伯爵に由来する。

前史

近代競馬の起の地であるイギリスにおいては、1791年にジェネラルスタッドブック(以下「GSB」)という血統書が作られ、これに基づいて厳格に血統が管理されていたが、輸出されたサラブレッドから輸出先ので生まれたサラブレッドであっても、当該的な血統書があればイギリスで出走させたり繁殖入りさせたりするのが許されていた。

現在ではもはや説明不要の競馬に成長したアメリカにおいては、何処の馬の骨とも知れない祖先に遡る土着牝系イギリスから輸入したサラブレッドを交配して産まれたや、あるいは南北戦争煽りを受けて血統書が散逸してしまったが多かったが、それでも1873年にアメリカンスタッドブックが作られると血統の管理は大分進み、現在コロネーションカップに当たるエプソムゴールドカップを制したローや、英ダービーセントレジャーを制したイロクォイのように、イギリスで「サラブレッド」として活躍するも現れた。

ところがこの手のの中には「出生サラブレッドとして登録されたが、祖先を見てもGSBに登録されているに遡れない」というも多くいたため、いつドサクサに紛れてわけのわからない血統のが大量流入してくるか分からんということで、1901年発行のGSB第19巻では、サラブレッド定義を「8代あるいは9代に渡って純血が交配され、かつ1世紀前まで血統が明でき、近の競走成績が優れていること」と定めた。それでもアメリカにおける賭博禁止法制定などの余波で他からのの大量流入が止まらなかったため、「サラブレッドの純血性の保護」を名として1913年にぶち上げられたのがこのジャージー規則である。

ジャージー規則の形成

1913年GSB第22巻で制定されたジャージー規則は、

この規則の発効日以降、両双方の先祖が全て欠陥なく既刊のGSBに載っているに遡れないおよびは、新しくGSBに登録することを認めない。

というものであった。

この規則は一見すれば何も問題がないようだが、既にサラブレッドとして登録されているに対しての遡及は行わないという規定が付いていた。つまり乱暴に言えば、

先祖にGSBに載ってないがいたらそいつはサラブレッドとして認めん! ただしもう登録されてるは先祖に欠陥があっても認めるから安心しろ!

というのがジャージー規則なのであった。

既に登録されているまで全部検してしまうとサラブレッドなのか怪しいイギリス内からも大量に出てしまうのは明らかであり、そのためジャージー規則は「サラブレッドの純血性の保護のための規則」と言えば聞こえは良いが、実態はほぼ「大量流入してきて本場の競馬を踏み荒らす怪しい血統のは排除するが、既に血統不詳のの恩恵に与っているイギリスの生産者には損をさせない」という的で作られたようなものだったのだ。

20世紀初期のアメリカでは、既に14年連続16回のリーディングサイアーを獲得したレキシントンの血を引くが大量におり、先述したローや、1882年にアスコットゴールドカップを制したフォックスホールとして既にイギリスの大競走でもレキシントン名前が見られるようになっていた。ところがこのレキシントン祖父ティレオン牝系アメリカの土着牝系だったため、ジャージー規則に従えば「レキシントンの血を引くサラブレッドではない半血種(いわゆるサラ系)である」という扱いを受けることになってしまった。

影響と衰退

こんな仕打ちをされてはアメリカの生産者も黙っていなかったが、当時は賭博禁止法時代だったため、アメリカ側からの反対運動には限りがあった。しかしそうこうしている内に、賭博禁止法の煽りを受けてフランスに渡ってきたハーマン・B・デュリエというオーナーブリーダーが生産所有したダーバーというが、レキシントンの血を引いているゆえにサラブレッドとして認定されないという屈辱を受けながらも1914年英ダービーを3馬身差で勝し、英国紳士たちを然とさせた。その後賭博禁止法の止やマンノウォーの登場などでアメリカ競馬は活気を取り戻し、1930年ジョッキークラブ会長に就任したウィリアムウッドワード卿(ウッドワードSの由来になった人)らの導もあって、ジャージー規則撤の機運が本格的に高まっていった。

一方、最初はジャージー規則に諸手を挙げて賛成していたイギリス産界においても、種牡馬選択肢が限られてインブリードが増えたせいで、結果的にレベルが伸び悩むようになった。しかも第二次世界大戦が始まると、他にいる「サラブレッド」と交配するのもままならなくなってしまい、結果的に自滅状態に陥ってしまった。

1940年代の大攻勢と廃止

そんな中、しばらく前に名前が出てきたダーバーは、引退後にフランス種牡馬入りして同の活躍トウルビヨンとなり、トウルビヨン種牡馬として「サラ系? なにそれ美味しいの?」と言わんばかりの活躍を挙げるようになった。

ジャージー規則はサラ系レース出走自体を禁じていたわけではなかったため、フランスは(サラブレッドと認められていたも含めて)イギリスへ大挙して遠征するようになり、その中からトウルビヨン産駒ジェベル1940年英2000ギニーを、カラカラ1946年アスコットゴールドカップを勝った。こうしてフランスが大暴れしていた1947年英ダービーにおいてイギリス最強されたテューダーミンストレルフランス*パールダイヴァーの4着に敗れた際には、敗因の議論よりも先に「屈辱」「国家的悲劇」などと言われた。

国生の攻勢が頂点に達したのは1948年のことであった。この年、2000ギニージェベル産駒フランスマイバブ勝利し、セントレジャーアメリカの土着血統を内包するアメリカブラックターキンが勝って、他産の「サラ系」がクラシック競走を2勝。他にもダービーフランスマイラに、クイーンエリザベスS(現在キングジョージの前身)をイタリアネラに、アスコットゴールドカップフランスアルバに勝たれ、イギリスの大競走の大半は他されてしまった。

これがトドメとなり、「もうジャージー規則なんて運用し続けててもイギリスレベルが下がるだけじゃね?」ということで、1949年発行のGSB第31巻ではサラブレッド定義が第19巻のものに戻され、遂に悪名高いジャージー規則は撤されたのであった。もしこの規則が今でも有効なら、例えばトウルビヨンの血を引くだけでもシンボリルドルフやらアホヌーラやらオルフェーヴルやらシーザスターズやらが全てサラ系扱いされていたわけで、現代競馬においてもとんでもないを残し続けることになったのは想像に難くない話である。

ちなみにサラブレッド定義についてはその後1969年発行のGSB第36巻で更に修正され、現在は大まかに「連続して8代にわたってサラブレッドが交配された」となっている。これによってサラ系からサラブレッドに「昇格」した日本にもいくつか例が見られる。

関連コミュニティ

ニコニコミュニティは2024年8月に終了しました。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/08(月) 10:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/08(月) 10:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP