中尾碩志 単語

ナカオヒロシ

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中尾碩志(なかお ひろし)とは、元プロ野球選手である。故人。

旧名は「中尾輝三」。

概要

191912月1日生まれ。三重県伊勢市出身。

京都商業学校時代には甲子園大会出場はなかったものの、快速球を投げる投手がいるとプロからも注を集め、京都商業卒業後、東洋紡に一時籍を置いた後に1939年東京巨人軍に入団。沢村栄治と経歴が同じで、選手としても速球だったこともあり入団前の触れ込みは「沢村二世」であった。

1年から先発投手に食い込み、12勝1敗、防御率2.61の成績を残す。11月のセネタース戦では、10個の四球を与えながらもノーヒットノーランを達成している。

1940年には膜炎を患い離脱したヴィクトル・スタルヒンに代わりエースとして活躍、26勝11敗、防御率1.76の成績を残した。一方で与四球212と制球面で苦しんだ。

1941年、2年連続で26勝を挙げ、リーグ最多の179奪三振記録最多奪三振タイトルを獲得。7月名古屋軍戦では、8個の四球を与えながら2度ノーヒットノーランを達成している。

1942年、兵役のため退団。終戦時には台湾航空隊の整備部隊中尉となっていた。

1946年巨人に復帰。

1948年には27勝12敗、防御率1.84、187奪三振投手三冠(最多勝利最優秀防御率・最奪三振)を獲得し、沢村賞ベストナインにも選出された。

1949年以降は自慢の快速球に陰りが見られ、1952年にはわずか1勝と成績が低迷した。

そこでこれまでの速球で押していく投球スタイルから、制球と投球術を磨き打たせてとる技巧投手に転身。更にスクリューを習得し投球の幅が大きく広がった。

1953年には14勝を挙げ復活を果たすと、1954年は15勝、1956年は通算200勝到達の勝利を含む16勝を挙げた。

1957年、0勝に終わりこの年限りで現役を引退

引退後は巨人にて投手コーチ二軍監督ヘッドコーチなどとしてV9を支えたが、所謂湯口事件の当事者として扱われたこともあり1974年限りで退任。コーチ退任後はスカウト部長として球団に残った。

1977年12月9日、急性胆嚢炎のため死去。享年58歳。

1998年野球殿堂入り。

人物・エピソード

快速球を武器に「三振四球か」という荒々しい投球で一時代を築いた巨人エース

自他ともに認める「ノーコン投手であったが、晩年は制球を磨き四球が大幅に減っている。

通算成績

投手成績

通算:16年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
NPB 516 184 45 209 127 --- --- .622 3057.0 1436 1597 1081 842 2.48 1.25

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