備前喜夫(びぜん よしお)とは、元プロ野球選手である。故人。
旧姓は太田垣。
OB | |
---|---|
備前喜夫 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県尾道市 |
生年月日 | 1933年10月9日 |
没年月日 | 2015年9月7日 |
身長 体重 |
177cm 67kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1952年 |
引退 | 1962年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校は尾道西高等学校に進学。エースとして活躍し、甲子園大会出場は叶わなかったものの、広島国体では準々決勝まで勝ち進み、植村義信擁する芦屋高校相手に敗れている。
初年度のオープン戦で好投したことに加え、エースの長谷川良平の調整が間に合わず、高卒新人ながら開幕投手に抜擢。太田垣はこの試合を7安打1失点完投で勝利投手となった。その後は新人ながらエースの長谷川とともにチームのエース格として支え、7勝17敗、防御率4.30という成績を残した。
翌1953年、13勝20敗と負け越したものの初の二桁勝利到達し、チーム内での勝利数は長谷川に次ぐ2位であった。
以降は、1954年に10勝10敗、1955年に13勝18敗、1956年に13勝22敗と負け越しこそ多いものの4年連続で二桁勝利に到達し、防御率も2点台半ば~3点台前半と良化していった。また、1956年にはオールスターゲームにも初出場している。
1957年、婿養子となり、「備前」に改姓。同年は20勝13敗と初めて勝ち越し、防御率も2.50と安定した投球でチームを支えた。
1958年は右肘痛のため9勝10敗と成績を落としたが、1959年には復活し、17勝20敗、防御率もセ・リーグ5位の2.19をマーク。オールスターゲームにも3年ぶりに出場した。
以降は肘の痛みに耐えながらのプレーとなり登板数こそ減らしたが、1960年は7勝8敗、防御率1.56、1961年は5勝8敗、防御率2.65と安定感は健在であった。
引退後も広島に残り、投手コーチや二軍監督として広島黄金時代の礎を築く。
1975年からはスカウトに転身。1979年途中~1980年にかけて二軍監督を務めた後、1981年からスカウトに復帰し、1987年からはチーフスカウトに就任。以降は2002年まで長きに渡りスカウト活動を続け、1980年代~2000年代に広島で活躍した選手のほぼ全ての獲得に関与したという。この他、ドミニカ共和国のカープアカデミーの開設にも尽力した。
力のある直球とキレのあるスライダーや大きく曲がるカーブ、芯を外すようなシンカーを武器に、長谷川良平とともに草創期の広島を支えたエース右腕。相手打者のバットを折るシーンも度々見られた。
小柄な体格で跳ね上がるような躍動感のある投球フォームから「バンビ」と呼ばれることもあった。
スカウトとして獲得に関わった選手には山根和夫にはじまり、野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹など広島だけでなく、球界を代表する選手を数多く発掘した(後述)。
通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 446 | 78 | 18 | 115 | 149 | --- | --- | .436 | 2119.1 | 522 | 835 | 859 | 698 | 2.96 |
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最終更新:2025/01/20(月) 13:00
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