植村義信(うえむら よしのぶ)とは、元プロ野球選手である。故人。
| OB | |
|---|---|
| 植村義信 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県芦屋市 |
| 生年月日 | 1935年1月5日 |
| 没年月日 | 2023年5月30日 |
| 身長 体重 |
179cm 72kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1953年 |
| 引退 | 1961年 |
| 経歴 | |
| 選手歴 監督・コーチ歴 | |
| プロ野球選手テンプレート | |
芦屋高等学校へ進学。2年時に夏の甲子園大会に初出場。準々決勝まで勝ち進んだものの、怪童・中西太擁する高松第一高校に敗退。秋の国体ではノーヒットノーランも達成している。3年時には春・夏連続で甲子園大会に出場。エースとして出場した夏の甲子園大では見事全国制覇を達成している。
初年度から出番をもらい、9試合に登板し、1勝5敗、防御率4.37という成績を残した。
1954年、先発ローテーション入りを果たし、9勝15敗と負けが先行したものの、防御率2.25とプロへの順応を見せる。
1955年、17勝10敗と飛躍し、防御率は同僚の中川隆に次ぐパ・リーグ2位の2.13を記録。オールスターゲームにも初めて出場した
1956年、課題であった制球力が改善し、19勝5敗、防御率2.01と負け数を減らし、勝率.792で最高勝率のタイトルを獲得。
1957年は8勝16敗、1958年は故障の影響で3勝9敗と低迷が続いた。
1959年、14勝8敗、防御率2.92と復活。1955年以来のオールスターゲーム出場も果たした。
1960年、キャンプ中に赤痢を患った影響で出遅れ、11試合の登板で防御率7.31と低迷。
1961年、リリーフ中心に起用され、防御率3.19とまずまずの成績を残したが、オフに戦力外通告を言い渡され、そのまま現役を引退。
引退後は主に投手コーチを務め、古巣の毎日に始まり、阪急ブレーブス、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズ、読売ジャイアンツなど、計5球団、36年間に渡り指導者として活動。成田文男や山口高志、佐藤義則、工藤幹夫、間柴茂有、木田勇といった名投手たちを育て上げた。
1984年には日本ハムの監督に就任したものの、戦術がはまらずシーズン途中に辞任している。
2000年にロッテのコーチを退任した後、同球団のチーム顧問に就任。この他少年野球の総監督を務めていたという。
2023年5月30日午後8時12分、多臓器不全のため死去。享年88歳。
全身をフルに使うダイナミックな投法から力強いストレートとドロップを武器に活躍した右腕。
制球力の良さや強気に攻める強心臓っぷりも持ち味だったが、投球フォームが大きい分走られることも多かった。
1957年には柴田英治に並ぶ史上最小投球数での完投勝利を記録している。
選手としては短命に終わったが、引退後は36年もの長きに渡りコーチなどを務め、現役晩年から始めた空手を生かし、空手の呼吸法や体の使い方を取り入れた指導法で多くの名投手を指導した。また、趣味の将棋を選手とのコミュニケーションとして取り入れ、選手と対局することでどんな性格や気質であるかということを見抜く手段として活用していた。
| 通算:9年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 322 | 29 | 6 | 74 | 69 | --- | --- | .517 | 1240.0 | 318 | 832 | 460 | 370 | 2.69 |
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最終更新:2025/12/06(土) 07:00
最終更新:2025/12/06(土) 07:00
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