武智文雄 単語

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武智文雄(たけち ふみお)とは、元プロ野球選手である。故人。

旧姓名は「田中文雄」。

概要

1926年11月4日生まれ。岐阜県稲葉出身。

1941年岐阜商業学校に進学。しかし第二次世界大戦化に伴い岐阜商業を中退し、日本海軍の予科練に入隊。1945年には自ら志願し特攻隊の隊員となったが、出撃直前に作戦変更となることが4度あり、命を散らすこと終戦を迎えた。

戦後社会人野球の大日本土木に所属。同チームでは外野手兼控えの投手としてリリーフ登板な起用法ではあったが、都市対抗野球大会連覇を経験している。

1950年、2リーグ分立に伴い新たに創設された近鉄パールスに入団。同球団が契約を結んだ第一号選手であった。

初年度の1950年、制球に難がありシーズン終盤まで勝利を挙げられず苦戦したが、アンダースローに転向し投球内容が劇的に変化。11月の大映スターズ戦ではヴィクトル・スタルヒン相手に投げ勝っている。

1951年、最下位に沈むチームにおいて、チームの勝ち頭として奮闘。15勝15敗、防御率2.70の成績を残した。

1952年近鉄シーズン通して30勝しか挙げられず、チーム勝率2割台という悲惨な状態であったが、チーム勝利数の3分の1にあたる9勝(18敗)を挙げた。翌1953年は4勝(15敗)に終わっている。

1954年、投球内容の良さに加え、開幕から打線も好調。オールスターゲームにも初出場するなど近鉄エースとして躍動。最終的には宅和本司と並び26勝を挙げ、近鉄球団初の最多勝受賞投手となった。防御率も2.16と安定していた。同年オフ結婚婿養子となったため田中文雄から「武智文雄」に名前が変わった。

1955年、開幕から不振が続いていたが、6月19日の大映スターズ戦で完全試合を達成し復調。最終的には10勝16敗、防御率2.56という成績を残した。

1956年には16勝を挙げたが、その後は徐々に登板数を減らしていき、1957年9勝、1958年4勝、1959年2勝と下降線をたどる。

1962年、現役を引退

引退後も近鉄に残り、1963年から1964年にかけて二軍投手コーチを務めた。

近鉄退団後は解説者を経て、夫人の父親の経営する西織りの会社に入社。自身が手掛けたネクタイブランド名に「パーフェクトタイ」と名付け販売した。

2013年7月1日心不全のため死去。享年86歳。

人物・エピソード

抜群の制球力と、多変化球、特に右打者のインコースに食い込むようなシュート(シンカー)を決め球に活躍したアンダースロー。速球にも浮かび上がるようなノビがあったという。

関根潤三沢藤光郎らとともに近鉄創期の中心選手として活躍し、1954年から1957年にかけて4年連続で開幕投手を努めている。

アンダースローに転向し開した選手であるが、実はアマチュア時代もアンダースローであった。プロ入り後に当時の監督から「上から投げろ」と命じられオーバースロープレーしていたが、球速は出るものの制球が定まらず、危機感を感じ元のフォームに戻して本来の投球ができるようになったという。

通算成績

投手成績

通算:13年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 401 98 19 100 137 --- --- .422 2015.0 381 773 836 664 2.97

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