熊野輝光 単語

クマノテルミツ

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熊野輝光(くまの てるみつ)とは、元プロ野球選手である。

概要

1957年8月28日生まれ。香川県木田出身。

志度商業高等学校へ進学。3年時に春の甲子園大会に出場したが、1回戦で敗退している。

卒業後、中央大学へ進学。同期には小川淳司がいた。チーム力として活躍し、4年時にはリーグ優勝に貢献し、全日大学野球選手権では優勝を経験。大学日本代表にも選出された。1979年にはドラフト会議ヤクルトスワローズから3位名を受けたが、入団拒否している。

大学卒業後、日本楽器(現・ヤマハ)に入社。ここでも中心選手として活躍し、4年連続で都市対抗野球大会に出場し、社会人野球日本選手権大会で優秀選手に2度選出され、1984年には社会人ベストナインにも選出された。1984年にはロサンゼルスオリンピック日本代表にも選ばれ、金メダル獲得にも大きく貢献した。

1984年ドラフト会議にて、阪急ブレーブスから3位名を受けて入団。同期入団には、古溝克之高橋智福良淳一らがいた。

翌年以降も阪急の外野のレギュラー格として活躍。1985年1986年と2年連続で100試合以上に出場して11本塁打記録している。

1988年以降は若手の台頭もあり、出場機会を減らしたが、準レギュラーとして活躍を続けた。

1992年勝呂壽統とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。

巨人移籍後は控えの外野手として、に守備固め代打として起用された。

1993年戦力外通告を受け退団。

1994年、古巣のオリックスに復帰。一軍出場はしに終わったが、若手の手本役として振る舞っていたという。同年限りで現役引退

引退後、オリックスに残り、2シーズンコーチを務めた後、フロント入り。スカウトや編成部門で活動した。2012年巨人スカウトを努めた後、2013年からは阪神タイガーススカウトとして活動。金子千尋西勇輝才木浩人らを担当した。

2024年限りで阪神を退団し、2025年からは独立リーグ香川オリーブガイナーズ監督に就任。

人物・エピソード

強打と俊足を武器に晩年の阪急力として活躍した外野手。一方で外ボールを打つことをやや苦手としていたようである。

ルーキーイヤーには本塁打を放った試合での勝率が高かったことから、『熊野権現』と呼ばれた時期もあったようである。

スカウトとしては金子千尋らの獲得に尽力した。

通算成績

打撃成績

通算:9年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 740 1984 1704 240 434 50 195 54 35 12 219 8 277 30 .254 .339

獲得タイトル・表彰・記録

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