ナチス親衛隊(Schutzstaffel)とは、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)の組織の一つ。略称としては「SS」が用いられることが多い。黒字に白でルーン文字の「SS」を染め抜いた標章と、「忠誠こそわが名誉(Meine Ehre heisst Treue)」という標語はよく知られる。
概要
党の武力組織として出発したが、アドルフ・ヒトラーの政権獲得後は指導者ハインリッヒ・ヒムラーの元でドイツ国家の権力機構に深く食い込み、警察・軍需経済・諜報など広範囲に影響力を持った。さらには強制収容所の管理やゲシュタポ・ゲシュタパとして知られる秘密国家警察の運営なども親衛隊の傘下で行われた。
また、武装親衛隊として知られる軍事組織は、国防軍とは別系統の軍事機構を有していたことでも知られる。
親衛隊、武装親衛隊ともに国防軍とは異なる階級制度を採用していたが、日本語では便宜的に軍隊式の階級を用いるか軍隊式の階級の前に「SS」をつけて便宜的に表記する方法(「SS少佐」等)が一般的である。
軌跡
1925年、ミュンヘン一揆後の収監から釈放されたヒトラーが党幹部の護衛部隊として編成したのが親衛隊(SS)の始まりである。
当初は党の武力組織として既に存在していた突撃隊(SA)の指揮下にあった。参加資格を問わず、ドイツ人なら誰でも参加が出来た突撃隊と対照的に、親衛隊は当初から加入に際し一定の条件を課しており、当初からエリート意識を持っていたことが伺える。
1929年にヒムラーが第4代親衛隊全国指導者に就任、と同時にニューヨーク・ウォール街の大暴落で世界恐慌が起こるとドイツでも失業者が溢れ、失業者達が突撃隊に殺到すると急速に隊員達の質が落ち、ドイツ各地で無法行為をする突撃隊隊員が増えた。その中で親衛隊は徐々に勢力を拡大し始め、「ならず者」突撃隊とエリート的な親衛隊と言う軋轢はナチスの政権獲得を目指す過程の中で徐々に先鋭化していくことになった。
勢力拡大
1933年、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領からドイツ国の首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。
保身から入党者が増えて、親衛隊員も爆発的に増えて行った。1933年末には20万9000人の隊員数を有するようになっていた。もっとも大多数は名誉隊員や週末のみ動員の隊員が多く、行事がある時に制服に着替えて参加するパートタイムの非常勤隊員であった。彼らは軍人として訓練されていないので、国防軍からはパレード専門用の「アスファルト兵士」と馬鹿にされていた。またヒムラーは親衛隊名誉指導者制を新設し、政財界の要人達を親衛隊に集めた。名誉指導者は親衛隊の任務は全く課されない代わりに親衛隊の組織や隊員に対して何の命令権もない存在だった。
ナチスの政権獲得後、ヒトラーは自力では制御不能な突撃隊を危険視した。突撃隊は政権獲得後に総隊員数400万人(うち武装兵士50万人)を抱え、「第二の国防軍」などと呼ばれるまでになっていたが、権力からは遠ざけられ、しかも深刻な隊員の失業問題を抱えていた。突撃隊員の中には「第二革命」を唱えて貴族階級が軍部を占める国防軍を解体して突撃隊を代わりの正規軍とすべきと主張する者も増え、軍と党の軋轢を強めていた。
突撃隊指導者エルンスト・レームら116名を粛清。「長いナイフの夜」と呼ばれた。
「長いナイフの夜」において親衛隊は主導的な役割を果たし、突撃隊にかわってナチス党の主要な実力機構の座に着いた。以後、ナチスがドイツ国家と一体化していく過程において親衛隊はゲシュタポを含む保安警察など警察機構や諜報機関を掌握し(のちには国家保安本部"RSHA"として一体化された)、強制収容所における囚人の労働力利用や企業経営などの経済活動にも手を広げていった。
ナチス・ドイツ権力機構の重要な一部を占めていた親衛隊だが、規模の拡大と共に当初のエリート意識にそぐわない隊員の加入や、財界人にSSの名誉階級が与えられるなどのケースもあり、親衛隊の理念を奉ずる隊員からの疑念が上がることも少なくなかった。ナチス・ドイツが敗北するとニュルンベルク軍事裁判において親衛隊に関係する組織は全て犯罪組織認定を受け、多くの関係者が訴追されたが、国外に逃亡した関係者も少なくない。
武装親衛隊
国防軍とは異なるナチス党(そしてヒトラー)の私設軍隊としての思惑と、人種意識・優勢思想に基づく将来的なエリート軍隊を模索するナチス幹部の理念から出発したのが武装親衛隊である。もともとは突撃隊がナチスの私設軍隊としての地位を担っていたが、質の低下した突撃隊は民衆や軍から反感を買っており、レームら幹部が粛清されると弱体化していった。
武装親衛隊の発展は、1933年、ヨーゼフ・ディートリヒが指揮するヒトラー個人の警護部隊「Leibstandarte SS Adolf Hitler」に始まり、1935年、パウル・ハウサーが「親衛隊特務部隊」の名称で部隊編制を許され、テオドール・アイケも強制収容所監視部隊のSS髑髏部隊から1939年にSS髑髏師団を編制する。しかし、「第二国軍」への伸張を憂慮する国防軍に配慮して1942年まで軍事予算ではなく、内務省の警察予算で賄われていた。
当初編成されたのは三個連隊規模のSS-VT(SS執行部隊)であったが、SS-VTは国防軍からの支援や元軍人の加入、スポーツ訓練や浸透突破戦術の導入などを経て軍隊としての洗練を深めていき、第二次世界大戦の口火を切ったポーランド侵攻においては国防軍の指揮下で戦闘に参加した。ポーランド戦後には最初の師団の編成が認められた。
フランスに勝利した後、1940年に親衛隊の武装部隊は「親衛隊特務部隊」から公式に「武装親衛隊」の新しい統一名称の下、「アスファルト兵士」から、実力を伴う「野戦部隊」として認知されていった。
1940年11月にはノルト師団(のち「ヴィーキング」師団と改称)が編成された。以降も続々と師団が編成され、大戦を通じて武装親衛隊は38個師団90万の兵力を有するまでに成長した。新兵器の優先供給を受けエリート部隊として、崩壊の危機にさらされる最前線の火消し役として国防軍に勝るとも劣らない働きを見せることとなる。しかし、実際の戦闘訓練を十分に受けていなかったために戦死者も多かった。 この傾向は特務部隊時代からでポーランド戦では国防軍の損害率が3%であったのに対して親衛隊特務部隊は8%に昇っていることからも窺える。ヒムラーはこうした親衛隊特務部隊や武装親衛隊の損害率の高さについては国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるためと釈明していた。
損耗が激しい為、当初は厳しい人種基準によって隊員は選抜されていたが条件は徐々に緩和され、民族ドイツ人やドイツ占領地からの徴募なども行うようになり、末期には外人部隊の様相を呈した。
当初は国防軍に遠慮していたような側面もある武装親衛隊だが、親衛隊がドイツの権力機構に食い込むにつれて国防軍の発言力は徐々に低下し、国防軍防諜部(アプヴェーア)やV2兵器の運用など、いくつかの機能は親衛隊に移管されていった。
当時のドイツ軍事組織の中でも最精鋭の一つであった第1SS装甲擲弾兵師団(編成は大戦の時期によって異なる。最終的には第1SS装甲師団)"Leibstandarte SS Adolf Hitler"から、大戦末期にSS士官学校の教官及び学生を急遽招集して構築された第38SS擲弾兵師団"Niebelungen"までその内部構成及び練度には大きな差があり、武装親衛隊=精鋭の図式は必ずしも成り立たなかった。師団番号が若い方が精鋭である可能性が高い、と皮肉られる事もある。
代表的な師団
- 第1SS装甲師団 "ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー"
SS最初期に設けられたヒトラー個人に対してのボディーガードから発展した師団。最精鋭の一つであり、部隊の出動先は常にヒトラーにより決定されていた。ドイツ最年少の連隊長となってヨアヒム[ヨッヘン]・パイパーや、後に第12SS装甲師団を率いてノルマンディーで激戦を繰り広げるクルト・マイヤーなどが所属していた。春の目覚め作戦の失敗後にオーストリアに移動後、米軍に降伏。 - 第2SS装甲師団 "ダス・ライヒ"
東部戦線における活躍で知られる師団。練度が非常に高く、エリート部隊として知られていた。武装親衛隊最初期に設立された"ドイッチュラント"、"ゲルマニア"、"デア・フューラー"の3個連隊が組込まれていた。終戦時は師団がバラバラになっており、西部戦線に向けて行軍、英米軍に降伏した。師団名の意味は「帝国」 - 第3SS装甲師団 "トーテンコプフ"
ドイツ騎兵の伝統であった髑髏のマークを師団章としていた師団。クルスクの戦い等の崩れ始めた東部戦線で頑強な抵抗を示した。元々強制収容所の看守をベースとして編成されたという背景と、フランス戦の最中に100人弱の英国軍捕虜を処刑した事に加え、その師団章のドクロから悪評との縁が切れなかった師団でもある。終戦時は米軍に降伏した物の、後にソ連に引き渡された。その結果過酷な収容所生活や処刑により、生きてドイツ本国に戻れた人員が少ない。師団名の意味は「髑髏」 - 第5SS装甲師団 "ヴィーキング"
初期から存在する師団でありながら、その名前が示すようにドイツ系非ドイツ人やフィンランド義勇兵が含まれていた為、後の義勇師団の走りになったとも言える師団。戦中通して東部戦線に配置されており、士気が高く抵抗も頑強であった為に最も赤軍に恐れられた。師団名の意味は「ヴァイキング」 - 第12SS装甲師団 "ヒトラー・ユーゲント"
編成の開始が43年と比較的遅いながら、その精鋭ぶりを持って称えられた師団。名前が示す通りヒトラー・ユーゲントの人員を根幹として、それにエリート師団であった第1SS装甲師団から抽出された士官、そして国防軍からの希望者を募って人員が集められた。また、下士官の数を補う為に優秀な兵を抽出して昇進させるなどして対応している。当初連合軍は「子供達の寄せ集め」と二線級師団扱いをしていたが、儀礼用の意味が強いガチョウ足行軍訓練などを徹底的に排除した実戦的な訓練と、若さ故に勇敢な兵達、加えて第1SS装甲師団や国防軍等から転向した戦場慣れしている将兵達に支えられた強靭な師団であった。カーンの戦いで驚異的な防戦を見せ、不名誉なレッテルを払拭している。余談であるが、未成年が大多数であった為に煙草や酒の代りに貴重品であるチョコレートやキャンディーなどが支給されていた。終戦時は米軍に投降。最終兵力500人以下、全重装備喪失という状況がその激闘を物語る。 - 第33SS武装擲弾兵師団 "シャルルマーニュ"
編成の開始は44年後半と遅い。反共フランス人や収容所内のフランス人等によって構築された師団で、制服の左袖にフランス国旗のシールドと、"Charlemagne"のアームバンドが縫い付けられているのが識別上のポイント。ベルリンの戦いにおいて圧倒的な劣勢下にありながらソ連軍相手に勇敢な戦闘を続けた。最終的に総統地下壕の防衛の任に当たっていた。最終生存者は30人を下回る。師団名の意味は「カール大帝」 - 第36SS擲弾兵師団”師団名なし”
この部隊の発端は、戦争初期に形成された懲罰部隊が元となった部隊であり、そこで服役していた兵士や強制収容所からの捕虜から構成されていた。そのため、武装親衛隊の中では非常に評判が悪かった部隊の1つであり、各種の戦争犯罪に関与している。兵士の消耗が激しくなった戦争末期には、正規兵の比率も増大しているが、戦争中を通じて対パルチザン任務に参加しており、その戦果より戦争犯罪で有名である。名称は師団であるものの、部隊規模としては旅団程度であった。師団章は、交差させた柄付き手榴弾である。また師団長因み、「ディルレヴァンガー」なる部隊名で呼称されることもあるが、こちらは師団に昇格する前の部隊名にディルレヴァンガーの個人名が冠されていたことによる俗称であり、師団への昇格後の名称には「ディルレヴァンガー」の名はない。 - 第38SS擲弾兵師団 "ニーベルンゲン"
最後の武装親衛隊師団で、編成は45年3月と末期である。その為、特別なアームバンド等の装備は一切支給されなかった。師団が編成された時点で人員は3000人を切っており、正に末期の急造師団という趣が強い。人員は基本的にSS士官学校の教官と学生であった。バヴァリアで米軍相手に絶望的な防衛戦を戦い抜いた後、5月8日に降伏。翼のついたドワーフの兜という師団章で知られるが、これは後世の創作という説がある。
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