ハイパーインフレーション(経済学)とは、経済学の用語である。ハイパーインフレと略される。
概要
定義
ハイパーインフレは、物価が急激に上昇していく現象のことである。
数字での定義その1 月率50%を超える
アメリカの経済学者フィリップ・ケーガンによるハイパーインフレの定義は「月率50%を超える」である。この定義はよく使われている[1]。
フィリップ・ケーガンの定義は瞬間的な速さを重視するもので、月率のインフレ率データを作成しなければその定義に該当する現象が起きているかどうか分からない。
月率のインフレ率データを作成し、インフレ率が月率で50.1%に達したら「その月がハイパーインフレになった」と表現される。
月率50%が1年間続くと年率で1万2975%になるので「年率1万3千%になったらその年がハイパーインフレである」といわれることがあるが、それは正しい定義ではない。
数字での定義その2 3年以内に累積100%以上で物価が2倍以上になる
国際会計基準によるハイパーインフレの定義は「3年以内に累積100%以上、物価がちょうど2倍以上になる」である。
例えば、年率26%のインフレが3年続くと、1×1.26×1.26×1.26=2.000と計算できるので累積100%となり、「この3年間はハイパーインフレだった」と表現される。このため「年率26%程度のインフレが3年」と憶えておいても良い。
ある年が年間15%、次の年が年間20%、その次の年が年間45%となると、1×1.15×1.20×1.45=2.001と計算できるので累積100%となり、「この3年間はハイパーインフレだった」と表現される。
国際会計基準の定義は3年間通しての持続性を重視するものである。年率のインフレ率データさえあれば、その定義に該当する現象が起きたかどうかを把握できる。
性質その1 家計や企業が近視眼的な生き方を強いられる
ハイパーインフレになると通貨の信用がほとんど消失し、誰もが「通貨をさっさとモノに交換しておこう」と考えるようになる。労働者は通貨で給料を受けとったら即座に市場におもむいて物資を買い込むようになり、近視眼的な生き方を強いられる[2]。
ハイパーインフレになると消費者は「いろいろな店を回って、同一品質の商品を一番安く売っている店を見つける」という行動をとる余裕がなくなる[3]。このため販売者は値段の釣り上げとボッタクリに励むようになり、さらに物価が上昇する。
ハイパーインフレになると、企業経営者の時間やエネルギーの大半が現金管理(キャッシュ・マネジメント)に割かれるようになり、投資や生産といった社会的により有意義な活動に割り当てられなくなり、社会の効率性が低下する[4]。
性質その2 政府税収の実質値の下落
ハイパーインフレになると政府の税収の実質量が減少する。多くの国において、徴税の金額が確定してから納税するまで間隔が空いているものだが、ハイパーインフレになるとその間隔で通貨価値が大きく減少するので、政府の税収の実質量が減少する[5]。
ハイパーインフレになると通貨価値がどんどん下落するのだが、そういう状況でも政府は公務員を雇い続けねばならないため、大量の紙幣を印刷して公務員に給料として渡す。こうして、天文学的額面の紙幣が発行されたり、札束の重量を測って取引を行うような事態が出現したりする。画像検索すると、ハイパーインフレ名物ともいえる札束の画像が見つかる(検索1、検索2、検索3)。
性質その3 窃盗や物々交換やドル化が横行する
ハイパーインフレになると、職場で通貨による給与支払いを受けても有り難みを感じなくなり、職場において窃盗をして給与の足しにしようとする動きが広がる[6]。つまり、財産権が軽視され、不道徳な社会になる。
ハイパーインフレになると通貨の信用が失われ、物々交換が行われるようになる[7]。そうした状況だと生産者が圧倒的に有利となり、消費者は大変な不利になる。第二次世界大戦のあとのハイパーインフレになった日本において、農産物を生産する田舎の住民と農産物を生産できない都市の住民が物々交換をして、都市の住民が高価な着物を差し出して安価だったはずの農作物を押しつけられたという逸話が多く伝えられている。
ハイパーインフレになると自国通貨の価値が暴落するので、価値が安定している外国通貨を誰もが欲しがるようになる。大抵の場合、覇権国家であるアメリカ合衆国が発行する米ドルが民衆の間で広く受け入れられ、米ドルが新しい通貨として流通し、ドル化と呼ばれる状態になる。
原因
戦争で生産設備という資産ストックが破壊されて不利な供給ショックが大規模に発生するとハイパーインフレの一因になる。
産油国が戦争に巻きこまれたり産油国が国際的石油カルテルを結んだりして産油国の原油生産が縮小し不利な供給ショックが大規模に発生するとハイパーインフレの一因になる。
戦争が起こって軍隊に人手を奪われたり、占領地において労働者が占領軍に反発してストライキを起こしたりして、労働力が減少して不利な供給ショックが大規模に発生するとハイパーインフレの一因になる。
テロや暴動による治安の悪化や粉飾決算の発覚や放漫経営の発覚によってその国家における不確実性が増え、カントリーリスクが高まり、国際的投資家がその国の投資を引き上げて負の需要ショックを引き起こし、その国の名目為替レートが急上昇して通貨が暴落し、輸入しにくくなり、国内に供給される物資が決定的に不足し、不利な供給ショックが大規模に発生するとハイパーインフレの一因になる。
自国政府が戦争に参加して政府購入が急拡大したり、戦争に参加する国家への純輸出が急拡大したりして、正の需要ショックが大規模に発生するとハイパーインフレの一因となる。
「外国に占領されて今の政府が消え去るんじゃないか」とか「革命が発生して今の政府が消え去るんじゃないか」といったように政府の継続性が疑われるとハイパーインフレの一因になる。
ハイパーインフレの例
ハイパーインフレの例として最も有名なものは、1920年代のドイツ・ワイマール共和国のものである。これについては本記事で改めて解説する。
その他に有名なものは、ジンバブエ・ドルで名高いジンバブエ、アルゼンチン、ベネズエラ、ボリビアなどである。日本も第二次世界大戦のあとにハイパーインフレとなった。
ハイパーインフレの例 1920年代ドイツ・ワイマール共和国
戦時中の輸入減少と物資不足
1914年7月から1918年11年まで続いた第一次世界大戦において、ドイツはずっと英国やフランスや米国との貿易を行えなかった。英国やフランスは開戦当初から敵国だったので当然のように貿易を行えなかった。そして1914年の開戦直後からイギリス海軍が海上封鎖していて(ドイツ封鎖)、そのせいでドイツは1917年4月まで中立を保っていた米国との貿易も行えなかった。このためドイツ国内では物資が不足していた。
そして総力戦の戦争だったので限られた物資は軍隊に優先して回されており、その間はドイツ国内における投資の需要が満たされなかった。1918年11月に戦争が終わって軍需が消えて政府購入が縮小したが、大きな投資の需要が国内に残っていた。
生産設備は無傷だった
第一次世界大戦の西部戦線はベルギーとフランス北部で膠着し、そのまま1918年11月にドイツ国内で反乱と革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命してドイツ帝国が崩壊し、終戦を迎えた。
ドイツは敵国領土に押し入りつつ自国領土が無傷のまま降伏するという珍妙な負け方をした。ドイツ本国には外国軍隊の砲弾が落ちてくることがなく、ドイツの工業地帯と生産設備は無傷だったので、その点での不利な供給ショックは起こらなかった。
巨額の賠償の支払いによる自国通貨安と輸入の減少
1919年6月に締結されたヴェルサイユ条約と1921年5月の賠償会議で、ドイツは第一次世界大戦の戦勝国から巨額の賠償金を課された。賠償金の総額は1320億金マルクで、金塊47,311トンに相当した。2790金マルク=金塊1kgであり2790000金マルク=金塊1トンであることから、1320億÷2790000=47,311と計算できる。これは当時のドイツの国家予算20年分ほどだったとされる。
このときのドイツは兌換銀行券の金マルクを自国通貨にしておらず、不換銀行券のパピエルマルクを自国通貨にしていた。このため外国為替市場で自国通貨のパピエルマルク売り・米ドル買いを行って米ドルを獲得し、その米ドルを賠償金として支払うことになった。なぜならこのときのアメリカ合衆国は金本位制を維持していて米ドルが兌換銀行券であったからである。1921年はそうやって必死に賠償金を払ったが、このせいで自国通貨安となり、輸入を行うのが難しくなり、国内の原材料が不足して不利な供給ショックが起こり、インフレ圧力が掛かった。
ルール工業地帯の占領に対するストライキ
1922年7月になると、ドイツは米ドルによる支払いが不能となった。賠償金の一部として石炭を現物で支払うことも戦勝国フランスと約束していたが、その支払いも遅れた。
当時のフランス首相はレイモン・ポアンカレで、ドイツに対する厳罰主義の支持者だった。1923年1月にフランス軍とベルギー軍がドイツ屈指の工業地帯であるルール工業地帯を占領した(ルール占領)。ルール工業地帯はルール炭田の近くに立地しているのだが、ルール炭田はヨーロッパ最大の炭田とされ、石炭を多く産出する。この石炭を確保して賠償金を回収する狙いがあった。
これに抗議するためドイツ政府は労働者たちにストライキすることを呼びかけ、ルール工業地帯の生産がぴたりと止まった。これを消極的抵抗とか受動的抵抗という。ストライキは労務の提供を止める行為なので、巨大な供給能力が完全に停止し、不利な供給ショックが大規模に発生した。
本来のストライキというものは、ノーワーク・ノーペイ(No work, no pay)の原則に従い、参加する労働者が雇用主からの賃金を受け取れなくなるため、決して長期間にわたって続けることができない。しかしこのときのドイツ政府は、ストライキに参加する労働者に対して紙幣を支払って給付金を与えたので、ストライキが長期間にわたって続いた。
通常のストライキを行うときは次のようになる。まず労働量が減少して不利な供給ショックが起きる。そしてそれに参加する労働者が所得を減らして可処分所得(所得-税金)を減らして消費しなくなり負の需要ショックを起こす。以上により物価が急上昇しない。タテ軸物価・ヨコ軸実質GDPの総需要-総供給モデルを用いると「総需要曲線と短期総供給曲線がどちらも左に平行移動し、均衡点が左に平行移動し、物価が急上昇しないままになった」と説明できる。
しかし1923年のドイツのストライキでは次のようになった。まず労働量が減少して不利な供給ショックが起きた。そしてそれに参加する労働者が所得を減らしたが、ドイツ政府が給付金(税金のマイナス数値)を支払って可処分所得(所得-税金)を維持したので、消費を継続し負の需要ショックを起こさなかった。以上により物価が急上昇した。タテ軸物価・ヨコ軸実質GDPの総需要-総供給モデルを用いると「総需要曲線が固定されたまま短期総供給曲線が左に平行移動し、均衡点が左上に平行移動し、物価が急上昇した」と説明できる。
ハイパーインフレの勃発
ルール工業地帯のストライキをきっかけに猛烈なハイパーインフレが始まった。
パン一個が1兆マルクに達した、本を買うのに札束をスーツケースにつめていったなどと逸話には事欠かない。
「大きな投資需要」と「賠償支払いを原因とする自国通貨安による輸入の不足と不利な供給ショック」と「ルール工業地帯占領を原因とするストライキによる不利な供給ショック」と「政府からストライキ参加者への給付金支払いによる消費の維持」が合わさって1923年のハイパーインフレとなった。
ハイパーインフレの終焉
1923年9月になってドイツ政府はストライキの呼びかけをやめ、ルール工業地帯のストライキが終わった。これによりドイツの供給能力が急激に回復した。
1923年末には公務員の1/3が解雇され[8]、政府購入が縮小し、負の需要ショックとなりインフレを押さえ込む力となった。
1924年8月30日のロンドン協定すなわちドーズ案において、毎年の賠償支払い額が3分の1に軽減された。これで外国為替市場におけるマルク売り米ドル買いの勢いが減り、マルク安に歯止めがかかり、輸入が増加に転じ、国内の供給が増加していった。
関連Wikipediaリンク
関連項目
脚注
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』145ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』147ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』146ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』146ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』146ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』148ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』147ページ
- *『マンキュー マクロ経済学Ⅰ 入門編 第3版(東洋経済新報社)N・グレゴリー・マンキュー』150ページ
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