アルトマルク号事件とは、第二次世界大戦中の1940年2月16日に中立国ノルウェーの領海で発生した英独間の軍事衝突である。
概要
第二次世界大戦が勃発した1939年9月より、ドイツ海軍の補給船アルトマルクはドイッチュラント級装甲艦3番艦アドミラル・グラーフ・シュペー専属の補給タンカーとして大西洋で活動。シュペーから撃沈した敵商船の捕虜299名を受け取った。12月19日、アルトマルクの乗員はニュースでシュペーが遠く離れたモンテビデオ港で自沈した事を知る。一方、イギリス軍はシュペーの乗組員を尋問して補給船の存在を把握し、大西洋を中心に捜索網を張った。ベルリンからの情報提供を受けてアルトマルクはケーブタウン南西で数週間隠れる。1940年1月24日、真水が不足したためアルトマルクはドイツ本国への帰投を目指す。連合軍の臨検を避けるために中立国ノルウェーの領海を通過しようと考えた。国際法では捕虜の移送目的で中立国の領海を通る事は禁じられておらず合法だったのだ。ちなみに捕虜の移送に中立海域を使用するのはイギリス海軍もやっており、1939年12月に巡洋艦ディスパッチがパナマ運河を通過する際にドイツ人捕虜を乗せている。
1940年2月15日、民間タンカーに偽装したアルトマルクがノルウェー領海に進入。さっそくノルウェー海軍から3回に渡って調査を受ける。船倉に閉じ込められている捕虜たちは異常を知らせようと騒いだり、壁を叩いたりしてきたため、アルトマルクの乗員がウインチを動かす等の作業音や機械音で合図をかき消した。調査の結果、全て異常無しと判断されて領海の通過が認められた。一説によるとノルウェー側は気付いていたが中立を守るために黙認したと言われている。ところが同日深夜、ソーナビー基地から発進してきたイギリス海軍のハドソン哨戒機がエーゲルスン沖のアルトマルクを発見して通報。本国艦隊から第4駆逐艦戦隊のコサック、イントレピッド、アイヴァンホーを派遣して救出を試みた。
3隻の駆逐艦はノルウェー領海内でアルトマルクを捕捉。反転や停船を命じたがアルトマルクは拒否し、ノルウェー海軍の水雷艇と哨戒艇に誘導されながらノルウェー南部のイェッシングフィヨルドに逃げ込む。この時、コサックがアルトマルクに武装兵を乗り移らせようと接近するが、ノルウェーの護衛艦艇が魚雷発射管を向けて威嚇したため失敗している。コサックに座乗している第4駆逐艦戦隊司令フィリップ・ヴァイアン大佐は海軍本部に指示を仰いだ。イギリス政府はノルウェー海軍にアルトマルクの共同護衛を申し出たが、「既にアルトマルクの調査は完了している」と繰り返して拒否。そこでイギリス海軍は強硬手段に出た。
2月16日22時20分、単艦で突き進んで来たコサックがアルトマルクに強行接舷し、海兵隊が銃剣でドイツ人乗組員7名を殺害、10名を負傷させて船内を制圧。船倉に閉じ込められていた捕虜全員を救助した。翌17日午前0時、海兵隊は捕虜を伴って退却する。7名の戦死者はイェッシングフィヨルドのソグンダル墓地に埋葬された。ノルウェー海軍の護衛艦艇は抗議こそしたが静観に徹してコサックを妨害しなかったという。
その後
ノルウェー政府は中立性を侵されたとしてイギリスに抗議をしたが、戦争に巻き込まれたくなかったためそれ以上の反発は行わなかった。しかしアルトマルクの動向がイギリスに筒抜けだった事からヒトラー総統はノルウェーが連合国に情報を流していると判断。また連合軍がノルウェーの中立を尊重していない事を確信し、ノルウェーを保護下に置くヴェーゼル演習作戦の指令書に署名。ノルウェーの運命は窮まった。
一方、救助作戦を指揮したヴァイアン大佐は一躍英雄となり、国民の戦意を盛り上げる事に成功。ところが中立海域での戦闘行為は国際法違反のため、救出劇ながら連合国の戦争犯罪に数えられる事がある。
関連項目
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