ヤン・ウィットヴェーン(Jan Witteveen)とは、かつてMotoGPなどで活躍した技術者である。
アプリリアの1990年代全盛期を支えた功労者として知られる。
経歴
数々のオートバイ企業を渡り歩く
1947年5月29日にオランダのフリースラント州スタヴォーレンで生まれた。
1970年にドイツ・ニュルンベルクに本社を持つオートバイ製造企業のザックスに入社して、小型2輪エンジンの開発に関わった。
1974年からはザックスの傘下にあったヘラクレス・DKWで、モトクロス(凹凸のある土の路面をジャンプしながら周回する競技)向けのバイクや、エンデューロ(凹凸のある土の路面をジャンプしながら一本道の長い距離を走破する競技)向けのバイクの開発をした。
1976年には、イタリア・エミリア=ロマーニャ州セッラマッツォーニに本社を持つオートバイ製造企業のシモニーニへ転職し、モトクロス用バイクの開発をするようになった。同社のバイクは1978年にイタリア・モトクロス選手権でチャンピオンを獲得している。
その次は、1978年にイタリアのピアッジオ・グループ傘下のジレラに移籍した。そのとき、ミケーレ・リナルディが走らせたモトクロスマシンを開発した。ちなみに、同選手がジレラと契約していたのは1981年~1982年のことである。
ランディ・マモラというMotoGPライダーがおり、最大排気量クラスで4回ランキング2位を獲得した大選手なのだが、その彼は1979年に250ccクラスでMotoGPにデビューしている。そのとき、乗っていたのがイタリアのビモータのシャーシにヤマハのエンジンを積んだものだった。このエンジンをビモータ製のものにしようという計画があり、ヤン・ウィットヴェーンもエンジン設計をしたという。
1984年の暮れには、カジヴァへ移籍した。1978年から1983年までのジレラ在籍時に、カルロ・ペルナットという人物と一緒にレースの仕事をしていた。そのカルロ・ペルナットが先にカジヴァへ移籍して、その後、カルロ・ペルナットがヤン・ウィットヴェーンをカジヴァに誘ったのである。
1987年には、カジヴァがスウェーデンに本社を持つオートバイ製造企業ハスクヴァーナを買収した。そのため、ハスクヴァーナのモトクロス用バイクを設計する仕事をした。
※この項の資料・・・Racers vol.15 31ページ、ヤン・ウィットヴェーンwebサイト
アプリリアに移籍
1989年、アプリリアに移籍した。当時のアプリリアはモータースポーツ部門を立て直そうとしており、そのための責任者としてヤン・ウィットヴェーンを引き抜いたのである。
このときのアプリリア社長はイヴァーノ・ベッジョだった。ヤン・ウィットヴェーンは、イヴァーノ・ベッジョ社長に「カルロ・ペルナットという人物は優れています。引き抜きをしたほうが良いと思います」と献策をしたので、社長もカルロ・ペルナットをカジヴァから引き抜いた。
こうして、イヴァーノ・ベッジョ社長、人事担当カルロ・ペルナット、技術担当ヤン・ウィットヴェーンという体制が1990年に完成した。
それからのアプリリアは快進撃が続き、MotoGPの125ccクラスと250ccクラスにおいて何人ものチャンピオンを輩出する名門企業になった。1980年代まではモトクロスとトライアル(障害物を乗り越える競技)でしか名前を知られていなかったが、大躍進を果たした。
250ccクラス | 125ccクラス | |
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1990年 | マーチン・ウィマー 6位 | アレッサンドロ・グラミーニ 9位 |
1991年 | ロリス・レジアーニ 6位 | ガブリエーレ・デッビア 4位 |
1992年 | ロリス・レジアーニ 2位 | アレッサンドロ・グラミーニ 1位 |
1993年 | ロリス・レジアーニ 3位 | ラルフ・ウォルドマン 4位 |
1994年 | マックス・ビアッジ 1位 | 坂田和人 1位 |
1995年 | マックス・ビアッジ 1位 | 坂田和人 2位 |
1996年 | マックス・ビアッジ 1位 | 徳留真紀 2位 |
1997年 | 原田哲也 3位 | ヴァレンティーノ・ロッシ 1位 |
1998年 | ロリス・カピロッシ 1位 | 坂田和人 1位 |
1999年 | ヴァレンティーノ・ロッシ 1位 | ロベルト・ロカテリ 4位 |
ちなみに、アプリリアは250ccクラスにワークスチームを持って参戦しており、125ccクラスにおいてはワークス活動をせずプライベートチームへのマシン販売だけにとどめていた。
この時代のアプリリアを支えたテストライダーというと、マルチェリーノ・ルッキである。日本語版Wikipedia記事では「1998年にアプリリア開発ライダーとして長期の契約を結び」と書いてあり、1997年以前はアプリリアの開発ライダーではなかったかのような印象を与えるが、実際は1990年代を通じてアプリリアの開発ライダーだった。この1997年の動画で、原田哲也が「ルッキがこのカウルを使っている」と発言しており、アプリリアの開発ライダーだったことをうかがわせる。
アプリリアの開発ライダーとして、ムジェロサーキットを来る日も来る日も走り込んでいた。ムジェロサーキットで開催されるイタリアGPではレギュラーライダーを上回るほどの速さを見せることを繰り返し(イタリア語版Wikipedia参照)、1998年イタリアGPでは41歳にして感動の初優勝を飾っている。
2019年3月にアプリリア祭がムジェロサーキットで開かれ、歴代チャンピオンが名車に乗っていたが(記事、動画)、その中でマルチェリーノ・ルッキも招かれていた(記事)。
アプリリアを退職
250ccクラスや125ccクラスでの快進撃は続いたが、最大排気量クラスでは今ひとつだった。1999年~2000年は原田哲也を擁しながらイマイチ成績で、2002年~2004年はRS-CUBEという4ストローク990ccマシンで散々な成績に終わっていた。RS-CUBEは力強いエンジンで最先端の技術をふんだんに盛り込んでいたが、とにかく乗りづらく、完成度が低く、芳賀紀行に「色々試したけど駄目だねこりゃね」と言われてしまうほどのマシンだった。
また、アプリリア本社も経営で失敗しており、2000年にモト・グッツィとラヴェルダを買収したがこれが祟って経営難になっていた。2004年8月にアプリリアはピアッジオの傘下に入ることを決め、イヴァーノ・ベッジョ社長が一線を退くことになった。
イヴァーノ・ベッジョ社長がいなくなるので、それに合わせて、2004年限りでヤン・ウィットヴェーンもアプリリアを退職することにした。
アドラーに入社してKTMのバイクを作る
2004年をもってアプリリアを退社した後は、イタリアのアドラーという自動車・オートバイ部品製造企業に就職した。この会社に在籍しつつ、オーストリアのバイク企業KTMのMotoGP向けマシン作りに参加した。125ccクラス向けマシンと、250ccクラス向けマシンを作り、2007年にはKTMのMotoGPレース部門の技術監督に就任している。
2007年の夏頃に、アメリカ合衆国でサブプライムローン問題が発生して世界的な大不況がはじまった。それと同時に、MotoGPの125ccクラスや250ccクラスといった2ストロークエンジンを使うレースカテゴリーが廃止されることが決まった。このため、KTMは125ccや250ccクラスにおけるワークス活動を終了させることになった。
※この項の資料・・・Racers vol.15 31ページ、speedweek記事
Haojue(豪爵)のレース活動に参加する
2008年頃からHaojue(豪爵)のレース活動に参加した。Haojue(豪爵)は中国のオートバイ製造企業で、スズキとの関係が深い。
スズキワークスの監督を長年勤めたギャリー・テイラーが監督に就任し、ヤン・ウィットヴェーンがマシンを開発する体制だった。マシンの名前はMAXTRA 125という。
2009年の序盤数戦に参戦したが、マシンの競争力不足が深刻で、最高速が17~22km遅く、予選最速ライダーから6.5秒落ちだとか8秒落ちといったタイムしか出せず、決勝進出すらできなかった。第4戦フランスGPを終えた時点で撤退することになった。
※この項の資料・・・2009年のMotoGP Wikipedia記事、記事1、記事2、記事3、記事4
JIRのレース活動に参加する
2010年は、Moto2クラスでJIRというチームで、技術顧問といった立場で参加していた。
このチームのオーナーはルカ・モンティロンで、使用するエンジンはホンダの600cc4ストロークエンジンで、使用するシャーシは日本のTSRである。この記事の写真には、TSRの藤井正和社長やルカ・モンティロンとともに映っている。
レースから引退
2012年の時点で小さな技術企業を興しており、将来型の2ストロークエンジンの研究開発を行っている。また、機械工学の博士号を取得しており、大学で講師を務めている。
開発方針
オートバイ作りの際には、自分で全ての部品を監督するようにしていた。エンジン、シャーシ、ブレーキ、サスペンション、カウル、と全ての部品を自分で決める。「オートバイを作るときは、すべての要素の協調・調和というものが大事である」という考えに基づいていた。
日本のメーカーは、ホンダもヤマハも大勢の技術者を抱える大メーカーなので、セクショナリズム(sectionalism 部門ごとに分かれること)がどうしても発生し、シャーシ製造部門とエンジン製造部門の意思疎通が十分に行われないなどといったことがたまに起こる。ヤン・ウィットヴェーンは、そういうことが起こらないよう、細心の注意を払っていた。
CFRP(炭素繊維強化プラスチック。エポキシ樹脂に炭素繊維を混ぜて強化したもの。カーボンと略して呼ばれる)を使うのが好きだった。1997~1998年に原田哲也が走らせたマシンは、スイングアーム(シャーシとリアタイヤをつなぐ板)、ホイール(車輪)、フェンダー(タイヤの上に被せるカバー)、マフラーのカバー、燃料タンク、フロントフォーク(フロントタイヤを支持する部品)、と様々なものがCFRPで作られていた。この動画でも原田哲也が紹介している。CFRPは作るのに時間がかかって高価だが、とにかく軽量で、経験を積めば剛性のコントロールをしやすく、レース用車両にふさわしい材料だった。
ちなみに余談だが、先ほど紹介した動画で原田哲也が「レーシング」のカタカナについて語っている。このカタカナは、アプリリアのイヴァーノ・ベッジョ社長の息子がデザインした。この「レーシング」については、原田哲也の日本語版Wikipedia記事にも記述がある。
その他の雑記
奥さんの名前はUlliで、子どもは3人。
イタリア企業との関わりが長いので、イタリア語を流暢に話す(動画)。
2ストロークエンジンが大好きで、この記事でも「2ストエンジンはライダーを育てる」と力説している。Racers vol.15 97ページでも、2ストロークエンジンの将来性について熱く語っている。
関連商品
原田哲也が走らせたアプリリアのマシンを特集している雑誌。 28ページから41ページまで、ヤン・ウィットヴェーンのマシン解説の文章が長く続いている。 原田哲也特集号であり、1996年末のチームレイニーでの不振から1997年~1998年のアプリリアワークスの戦いを記しており、これを読むだけで当時のことがだいたい分かる。 さらには原田哲也の奥さんや娘さんも出てきており、原田ファン必読の雑誌となっている。 |
関連リンク
関連項目
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