ヴァルデマー1世(1131~1182)とは、デンマーク王である。
なお、綴りが同じ人物がスウェーデン王にもいるが、あちらはヴァルデマール1世と日本では書かれるので特に触れない。
概要
デンマークの内乱を勝ち上がり、デンマークの繁栄を作った大王。北方十字軍の端緒となったヴェンド十字軍を起こし、右腕のアブサロンとともにデンマークの覇権を築くが、彼の死後息子・ヴァルデマー2世が誘拐されたことでいったんデンマークは衰える。
なお、ヴァルデマーとはスラブ系のヴラディーミルの転じたものであり、ルーシ国家と北欧諸国とのつながりが感じられる。
ここまでのあらすじ
デンマークの歩み
『デンマーク人の事績』をどこまで信じるかはおいておいて、デンマークが頭角を現すきっかけとなったゴーム老王、ハーラル青歯王、スヴェン双又髭王の系統がイングランドに到達するほど勢力を拡大し、イングランド、ノルウェーをまとめたクヌーズ大王によって「北海帝国」とまで後世言われた覇権を築く。
ただし、クヌーズ大王の息子・ハーデクヌーズとマグヌス善王亡き後、王統は姉の系統であるスヴェン・エストリズスンが1047年に継承した。が、この息子が大量にいたことが、すべての始まりとなった。スヴェン・エストリズスンの亡き後、ハーラル砥石王が王位を継承したが、弟のクヌーズ聖王が彼の死後に王位を奪取。しかし、キリスト教の布教に熱心だった半面性格が苛烈だったクヌーズ聖王は農民に討たれ、さらに弟のオーロフ飢餓王が王位を継いだ。
ところが、名前を見てわかる通りオーロフ飢餓王の在位に飢饉が続き、クヌーズ聖王の名声が復活。オーロフの死後クヌーズ聖王の陣営にいた弟のエーリク常善王が王位を継承できたのであった。ところがこのエーリク常善王はエルサレム遠征中に客死し、今度は弟のニルスが王位を継いだのである。
そして、ニルスはエーリク常善王の息子・クヌーズ・レーヴァードを重用する。この事態に恐れを抱いたのが、ニルスの息子・マグヌスであった。彼はクヌーズ・レーヴァードを殺し、1131年についにデンマークは内乱に陥ったのであった。
30年近い内乱
クヌーズ・レーヴァードの派閥はマグヌスを追い詰め、3年後にクヌーズ・レーヴァードの本拠地であったスリースヴィの民衆がマグヌスを殺害する。ここでスリースヴィの民衆が選んだのが、クヌーズ・レーヴァードの弟・エーリク2世であったが、この王もあっけなく殺害され、エーリク2世の甥・エーリク3世がさらに跡を継ぐ。
この内乱の間、ヴェンド人がデンマークの方までやってきて、攻撃してきたと記録されてはいる。一方で、ヴィーゼ家とその養子となっていたクヌーズ・レーヴァードの子、後のヴァルデマー1世が次第に頭角を現していった。
エーリク3世の後、クヌーズ・レーヴァードの陣営はエーリク2世の子・スヴェン3世を中心にまとまっており、ヴァルデマー1世も当初は彼に仕えていた。一方でマグヌスの息子、つまりニルスの系統のクヌーズ3世も以前健在であり、ヴァルデマー1世も次第に独自勢力となった結果、3人の王が相争う状況になったのであった。これに嚙んでいたのがザクセンのハインリヒ獅子公であり、デンマークはすでに南の「帝国」のダイナミズムに組み込まれた存在だったのである。
ロスキレの血祭り~内乱の終結~
1157年、3人の王は争うことをあきらめた。スコーネの王、島嶼部の王、ユトランドの王の三国分割として、スヴェン3世、クヌーズ3世、ヴァルデマー1世が共同統治することになっていた、はずであった。
ところが事態は急変する。スヴェン3世が会談の席でクヌーズ3世、ヴァルデマー1世を襲撃したのである。ここでクヌーズ3世が討ち取られた一方、ヴァルデマー1世はヴィーゼ家の側近・アブサロンとともに脱出に成功する。ヴィーゼ家の一員、エスバン・スナーアに助けられたヴァルデマー1世一行は、グラーテの戦いでスヴェン3世を返り討ちにし、ついに単独王となったのであった。
ヴァルデマー時代
ヴァルデマー1世とロスキレ司教となったアブサロンが取り組んだのは、東方から襲撃を繰り返すヴェンド人対策である(という語りで『デンマーク人の事績』は紡がれているが、ヴェンド人側の史料が当然ないため真実は不明)。
ヴァルデマー1世とヴェンド人との戦いのクライマックスとして描かれがちなのが、リューゲン島の攻略である。アルコナを拠点にし、スヴェントヴィトを信仰していた彼らとの戦いは、1169年にヴァルデマー1世の勝利に終わり、リューゲン島にいたヴェンド人の一派・ラーン人はヴァルデマー1世に帰服し、諸侯の一員となった。
ヴァルデマー1世とアブサロンによって前線基地として築かれたのが、後のコペンハーゲンである。ヴァルデマー1世はエスキルに代えてアブサロンをルンド大司教にすらつけ、自身の系統と近臣集団の両輪が機能するこの状態でちょうど亡くなった。
ヴァルデマー時代の終焉
ヴァルデマー1世の息子、クヌーズ6世(正確にはクヌーズ4世)は幼くして王位を継ぎ、皇帝ハインリヒ6世への忠誠を拒絶した。ハインリヒ6世のリューゲン攻略に先制を加え、アブサロンはポンメルンを攻略。ポンメルン公ブギスラフもクヌーズとアブサロンに屈服したのであった。
そして1202年、弟のヴァルデマー2世が後を継ぐ。スリースヴィ公爵として育った彼は、その間にホルシュタイン伯領をも併合し、版図を広げたのである。そんなヴァルデマー2世は、ボヘミア王家の女性・ダウマ、彼女の死後はビーンゲアトを妃にした。前妻の子がヴァルデマー、後妻の子がエーリク、アーベル、クリストファである。
1219年、ヴァルデマー2世はエストニア遠征を行った。ヴォルマの戦いで後の国旗となるダネブローの奇跡によって勝利し、北方十字軍で制圧した領土は広範なうえ、ドイツ地域にも拡大を行っており、まさに絶頂であった。
ところが、悲劇が起きる。1223年、シュヴェリン伯爵ハインリヒがヴァルデマー2世と息子のヴァルデマーを襲撃して監禁したのである。こうして、ヴァルデマー2世の版図はほとんどが失われ、デンマークは再度の混乱期に移る。
関連項目
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