山名豊次(やまな・とよつぐ)とは、戦国武将である。
1の概要
(? ~ 1564)山名誠通の次男。兄に山名豊成。通称・弥二郎、弥次郎。
1563年に兄が武田高信によって謀殺されたため、家督を継ぐ。しかし豊次の継承当時は因幡守護・山名氏の勢力は父のころと比べると大きく衰退させており、山名豊数や武田高信との勢力差は大きく開いていた。
同年に高信の攻撃により豊数が布勢天神山城を捨てて鹿野城へと逃亡すると、いつの間にか掠め取ったという。(但し、豊次が布勢天神山城を奪ったという記録は残っていないという。)
1564年に布勢天神山城にいたところを高信に攻められ、立見峠で一戦して敗れて自害して果てた。これにより因幡山名氏の血脈は断絶した。
現在においては『立見峠のおとんじょろう』のおまけの怨霊伝説として通称の『山名弥次郎』として登場している。
ともかくとして怨霊伝説として語り継がれるということは豊次の無念さの大きさが窺い知れることができる。
立見峠………鳥取市本高と宮谷を結ぶ小さな峠であり、現在では鳥取県道189号線と鳥取県道49号線を結ぶ道である。本高と宮谷を直接連絡する道路は1本のみである。本高から宮谷を立見峠経由で進むと千代川支流の野坂川に到達できる。徳島県にも同名の峠がある。
2の概要
(? ~ 1643)磯部豊次とも。山名康煕(山名康熈、山名煕氏とも)の四男。兄に磯部豊直。子に磯部新右衛門がいる。甚太夫。
主君・山名祐豊により但馬に逃れてきた波多野秀光により養育を受ける。のちに秀光の娘を娶る。景石城主を務めた。
羽柴秀吉の山陰侵攻で敗れると苗字を兄・磯部豊直と同じくして旧領の磯部庄より拝借して『磯部』と改姓する。
暫くは野間(丹波国多紀郡の野間か?)という場所で閉塞していたが、のちに故あって福知山藩主・有馬豊氏に仕えることとなり、久留米移封にも従った。
布勢天神山城………鳥取県鳥取市湖山町南から布勢にかけてあった城。近くに湖山池がある。最寄駅はJR山陰本線湖山駅。
鹿野城………鳥取県鳥取市鹿野町鹿野にかけてあった城。鳥取県道21号線または鳥取県道32号線より鳥取市立鹿野中学校方面へ。現在は遺構の一部(二の丸跡)が中学校になっている。同様のケースに柳川城跡に建てられた柳川市立柳城中学校などがある。最寄駅はJR山陰本線浜村駅。
関連動画
関連項目
- 0
- 0pt

