「戸川秀安」(とがわ・ひでやす 1533 ~ 1592)とは、腹黒さに定評のあるイケメン梟雄・宇喜多直家に仕えた最古参組の家臣であり、宇喜多家の創業期を支えた筆頭家老として宇喜多直家と共に歴戦を戦いぬいて築き上げた深い絆に定評のある宇喜多三老の一人に数えられる重臣。
※本来の名は「富川秀安(とがわ・ひでやす)」で、子の戸川達安の代に「戸川」を名のるようになった。
宇喜多三老 |
岡利勝(岡家利) |
戸川秀安(富川秀安) |
長船貞親 |
概要
美作富川を所領としていた実母の姉婿富川氏の養子の出身で、母が宇喜多直家の弟の乳母を務めていた縁から、島村盛実の姦計により祖父・宇喜多能家を殺されて、武家の最下層にまでおちぶれた状態からはいあがらんとした宇喜多直家が奇跡的に浦上宗景の家臣となった際に与えられた300石の小城・乙子城にて、宇喜多直家の小姓として仕えた。
その後は宇喜多直家に近侍して、日本で初の鉄砲による暗殺のターゲットとなって死した三村元親の弔い合戦を三村家親が挑んできた際にこれに対抗し、その後も三村氏や毛利氏と戦う中で筆頭家老にまでのぼりつめ、家中随一の25000石を領するまでになったが、乙子城時代から絆で結ばれた宇喜多直家との信頼関係により、家中の最大勢力の抹殺といった腹黒さに定評のある謀将の家臣にありがちなルートとは無縁で、宇喜多直家もまた戸川秀安を信用し、知行は最大で60000石が与えられ、宇喜多直家の晩年時からは国政を任せていたほどだった。
温厚篤実な人物だったといわれており、戸川秀安以外の宇喜多三老の岡利勝と長船貞親が武辺者な気性もあって反目することがあっても、戸川秀安がクッション役となって三位一体を保って宇喜多家を盛り立てた。
※宇喜多直家と宇喜多忠家の間で不和が発生した際もクッション役となって「兄弟仲良く」なるよう尽力した。
宇喜多直家が没すると、せめこんできた毛利方の毛利元清の軍勢と戦って、総大将の宇喜多基家を失う等の大敗の際に、八浜七本槍に数えられた馬場職家の活躍で生き延びた戸川秀安は、宇喜多秀家が正式に宇喜多家を継いだ後に、家督を子の戸川達安に譲って隠居し、病がちとなった晩年を過ごした後に没した。
宇喜多家が戦国大名にまで飛躍するにあたって、戸川秀安と言うクッション役の存在がいかに大きかったかは、宇喜多三老の子供の代に、三老の子供達である戸川達安や長船綱直らの権力争いにより宇喜多家が崩壊しかけた事実が証明している。
また謀略をもって成り上がった宇喜多直家にとっても、戸川秀安の様な他人の気持ちを汲み取る能力に長ける人物がいたことが、恐怖政治での統制を行う必要性が無く、家臣を大事にしていた事にもつながったとも思われる。
※その他「戸川秀安」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。
関連動画
▼history-reproduction「直家謀反」に宇喜多三老として登場。
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング中国編にて総合6位で登場。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 33 | 政治 | 33 | 魅力 | 49 | 野望 | 59 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 53 | 政治 | 48 | 魅力 | 54 | 野望 | 45 | 教養 | 54 | ||||
覇王伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 63 | 智謀 | 34 | 政治 | 48 | 野望 | 45 | ||||
天翔記 | 戦才 | 144(B) | 智才 | 90(B) | 政才 | 126(B) | 魅力 | 69 | 野望 | 40 | ||||
将星録 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 60 | 政治 | 69 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 63 | 智謀 | 53 | 政治 | 62 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 50 | 智謀 | 43 | 政治 | 54 | 野望 | 55 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 49 | 知略 | 68 | 政治 | 56 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 53 | 知略 | 66 | 政治 | 59 | 教養 | 49 | ||||||
革新 | 統率 | 64 | 武勇 | 69 | 知略 | 74 | 政治 | 73 | ||||||
天道 | 統率 | 64 | 武勇 | 69 | 知略 | 75 | 政治 | 73 | ||||||
創造 | 統率 | 61 | 武勇 | 66 | 知略 | 73 | 政治 | 71 |
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関連項目
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