「浦上宗景」(うらがみ・むねかげ ????~????)とは、戦国時代の大名である。
概要
備前守護代浦上村宗の次男として生まれる。当初は家督を継いだ兄・浦上政宗に従っていたが、天文20年(1551年)から始まった尼子晴久の東征について恭順を主張する政宗と撃退を主張する宗景は対立し、結果として宗景は備前を地盤として兄から独立した。
独立当初は強大な尼子、更に兄政宗や備前松田家(政宗と婚姻関係)と対立しており、相当な苦境に立たされていたが安芸の毛利元就、備中の三村家親らと同盟してこの攻勢を凌ぎ、やがて毛利家が勢力を拡大して尼子家が東征を続けられなくなると、そこからは自力で政宗や松田家を圧倒し勢力を拡大した。
やがて毛利や三村と権益が衝突すると、両家との同盟を切り自立。美作の後藤勝基などを庇護下に入れて、宇喜多直家が明善寺合戦に勝利して以降は児島を除く備前の殆どを制圧し、美作・備中にも版図を伸ばした。
だが、これに至る戦いで力を付けた沼城主宇喜多直家は密かに将軍足利義昭に接触して独立を画策し、永禄12年(1569年)に宗景が播磨の赤松政秀討伐に動いた隙に挙兵したが、宗景は黒田官兵衛との戦いに敗れて疲弊した赤松政秀を先に下し、直家を降伏させた。しかし、義昭は直家の独立を認めた立場であり、これ以後はなし崩し的に直家の独立を黙認したような形となる。
ひとまずは直家と再び同盟して、毛利家や三村家と共同戦線を張っていたが、毛利が九州戦線を放棄して軍事活動を中国地方に絞り始めると苦戦し、宇喜多直家の足利義昭への仲介で毛利と和睦した。宗景は足利義昭と懇意の直家に対して織田信長へと接近。多額の献金によってついには『備前・美作・播磨3ヶ国支配の御朱印』を与えられた。
だが、将軍義昭の京からの追放に加えて、織田政権に独立性を否定された直家は毛利家と同盟して宗景と対峙。宗景は美作三浦家と結び、更には仇敵宇喜多直家と同盟を結んだことで毛利家への不信感を露わにした三村家と同盟してこれに対処しようとしたが、直家の事前の工作や浦上久松丸の擁立、毛利家の迅速な三村家討伐に対して、織田家の救援は荒木村重から兵糧が送られるのみに留まり、追い詰められた宗景は天正3年(1575年)9月についに天神山城も放棄し播磨へと敗走した。
この後、再び織田信長に拝謁して荒木村重の庇護の元で播磨にわずかばかり所領を得て、しつこく備前復帰の機会を伺っていたが、荒木村重が織田家に反乱を起こしたことによって梯子を外された形となり、やむなく一門の浦上秀宗と共に兵を挙げて宇喜多直家に最後の戦いを挑んだがこれも失敗し、以後は歴史から姿を消す。一節には晩年は黒田長政に保護され、出家して余生を送り70~80歳の生涯を終えたという。
逸話
一世一代の軍略、児島の戦い
永禄12年(1569年)にひとまず直家を降伏させた宗景は対毛利を見越して直家と再び結び、美作の三浦貞広の旧領復帰や山中鹿之介の反毛利活動をサポートし、大友宗麟・三好義継らと同盟を結んだ。また、大友宗麟と通して能島水軍の村上武吉にも接触し誼を通じる。
下準備を整えた宗景は元亀2年(1571年)、備前で唯一支配下に置いていなかった三村領児島の制圧に乗り出す。対して毛利はこれを阻止する為に小早川隆景を派遣して浦上軍と対峙した。
宗景は同盟勢力の動きを最大限利用して小早川隆景との正面切った決戦を回避する。まず、能島水軍が毛利家に公然と反旗を翻した事によって隆景はは自前の水軍を能島の封じ込めの為に動員せざるを得なくなり、また備中では宇喜多直家が同時に兵を動かして三村軍を撹乱し、幸山城を奪取した。
下手に備前に入れば宇喜多直家に退路を遮断される恐れが出てきた小早川軍は全軍では行動出来なくなり、隊を分けての行軍を余儀なくされたが、児島には浦上本隊と三好の篠原長房が準備万端待ち受けており、児島へと向かった小早川分隊は伏兵によって壊滅させられた。この敗戦は小早川隆景も
「児島には正体がない。敵も見ぬ間に高畠郡を攻め破られた。作戦がなっていない。」(小早川文書)
と、反省の弁を述べている。加えて、安芸では毛利元就が死亡し小早川隆景は児島救援の任を充分に果たせぬまま帰国せざるを得なくなった。天下の名将を相手に大立ち回りを演じ、退かせた宗景であったが、後藤勝基の毛利への寝返りなど諸々の事情で児島の制圧には失敗した。
信用のない男
天正2年(1574年)に直家は備前国境近くの国衆を調略で味方に付け、浦上家に対して戦を起こす。宗景は直家が毛利と接触していると判断し、宇喜多と結ぶことで三村との関係悪化を憂慮する吉川元春を窓口に毛利家の参戦を防ごうとしたが、小早川隆景・安国寺恵瓊らが猛烈に浦上潰しを主張し、失敗した。毛利輝元に曰く
「浦上・宇喜多引分及取相候、然者宇喜多事者連々此方江入魂馳走候、宗景事者数度逆意候、此時宇喜多へ加勢可仕存候」(内藤家文書)
要するに「直家は信用できるけど宗景は度々反逆しやがるのでこの度は直家に加勢するよ」という事である。後世からすれば噴飯ものかもしれないが毛利との停戦後に大人しくしていた直家と尼子再興軍にコソコソと資金援助していた宗景、どっちが信用に値するかといえばこの時点では当然といえば当然の評である。
直家は家臣?
上記の概要でも思った人がいるかも知れないが最近の研究ではどうも下克上で蹴落とされたとは言えないらしい。そもそも備前軍記などの軍記物からして直家と共同戦線を張った機会というものが殆どない上に、同じ陣に寄って宗景の指揮の元で直家が戦っていた戦いというものは史料で確認できない。
まず宗景は兄から領地奪い取って独立し、宇喜多を含む付近の小勢力たちの国人一揆の実質的なリーダーになったに過ぎず、のらりくらりと大勢力の動きを外交で交わしながら間隙を縫って巧みに影響力を伸ばしていたが、永禄12年(1569年)に宇喜多直家が足利義昭から「備前衆」の首領であると認められた事でその支配の正当性が大きく揺らいでいた。
何とかして中央から領地支配の正当性を認められ、国衆を正式に従えるという事は至上の課題であり、そうした経緯から信長からの庇護のもと3ヶ国支配の朱印を得た事は大きな前進であったが、独立を否定された直家はこれに納得せず決戦となり、肝心要の戦いで見込んでいだ織田家の支援が無く敗れ去ったというのが実態らしい。
ただ、直家は宗景との戦いにおいて浦上久松丸(政宗の孫)を擁立し、この臣下に下るという形で「政宗から領地を奪い取った反逆者宗景を討伐する」という大義名分を掲げたので、「浦上家臣宇喜多直家」というのは一時ではあれど直家が自認していたのもまた事実なのである。
- ※ついでに備前軍記の想定より実は20歳ぐらい若い武将だったのではないかとも言われ始めている。宇喜多能家の暗殺当時は幼少のために政務を取れなかった政宗より更に年下の弟であるので『祖父の仇』という説も相当に怪しい。
信長の野望
「信長の野望」(PC)シリーズにおける浦上宗景の能力一覧。 微妙の一言である。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 69 | 政治 | 64 | 野望 | 71 | ||||
天翔記 | 戦才 | 116(B) | 智才 | 138(B) | 政才 | 128(B) | 魅力 | 73 | 野望 | 71 | ||||
将星録 | 戦闘 | 57 | 智謀 | 65 | 政治 | 64 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 59 | 戦闘 | 54 | 智謀 | 62 | 政治 | 58 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 55 | 智謀 | 57 | 政治 | 52 | 野望 | 82 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 63 | 政治 | 46 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 54 | 知略 | 63 | 政治 | 51 | 教養 | 58 | ||||||
革新 | 統率 | 62 | 武勇 | 56 | 知略 | 71 | 政治 | 57 | ||||||
天道 | 統率 | 62 | 武勇 | 56 | 知略 | 71 | 政治 | 57 | ||||||
創造 | 統率 | 60 | 武勇 | 60 | 知略 | 71 | 政治 | 57 |
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