- プロ野球選手一覧 > 河本育之
概要
OB | |
---|---|
河本育之 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県熊毛郡 |
生年月日 | 1967年10月21日 |
身長 体重 |
173cm 78kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト2位 |
引退 | 2007年 |
経歴 | |
選手歴
|
|
プロ野球選手テンプレート |
田布施工業高等学校に進学。硬式ではなく軟式野球部に入部。2年時には3試合連続ノーヒットノーランを達成。3年時には初めて全国大会に出場し、初戦で15奪三振を記録している。
卒業後、新日本製鐵光に入社。ここで硬式野球を始めた。1987年、日本鋼管福山の補強選手として都市対抗野球大会に初出場。1989年・1990年には自チームで都市対抗野球に出場。1991年には協和発酵の補強選手として都市対抗野球に出場している。
1991年ドラフト会議にて、千葉ロッテマリーンズからドラフト2位指名を受け入団。
初年度の1992年、開幕一軍入りを果たすと、デビュー戦となった福岡ダイエーホークス戦では7者連続奪三振という鮮烈な内容でプロ初登板を終える。この活躍で自信を深めた河本はその後も好投を続け、新人選手としては史上3人目となる4月の月間MVPを獲得。その後も新人離れした投球内容を続け、抑え投手を任されると、オールスターゲームにも出場。最終的には2勝4敗19セーブ、防御率2.58という成績を残した。新人王の座は近鉄バファローズの高村祐に譲ったが、パ・リーグ連盟特別表彰(新人特別賞)を受賞している。
1993年、前年よりは打たれる場面も目立ったが抑え投手の役割を全うした。6勝3敗18セーブ、防御率3.09という成績を記録。
1994年はやや調子を落とし、成本年秀に抑えの役割を譲ったが、セットアッパーとして登板を重ね、6勝6敗2セーブ、防御率4.21という成績を残した。
1995年、成本とともにダブルストッパーを任され、4勝3敗10セーブ、防御率1.64と復調。
1996年、セットアッパーとして活躍し、4勝5敗10セーブ、防御率2.78と安定感を発揮。シーズン後に行われた日米野球にも出場した。
1997年、成本の故障により抑えを任されると、12試合連続セーブポイントを記録するなどシーズン通して好調。防御率は1.96、自己最多となる25セーブを挙げたが、2SPの差で最優秀救援投手のタイトルは赤堀元之に譲ることになった。
1998年、左肩の状態を悪くし、夏場には登録抹消されるなど25試合の登板にとどまった。河本不在の間にチームは18連敗を喫する泥沼状態に陥ってしまっている。
1999年、前年の故障の影響でフォームを崩し、防御率も4.50とスランプに陥った。シーズンオフに石井浩郎とのトレードで読売ジャイアンツへトレード移籍。
巨人では主に中継ぎ投手として起用され、在籍4シーズンとも20試合以上に登板したが、ロッテ時代の輝きは取り戻せなかった。
2004年シーズン途中に中村隼人とのトレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍。途中加入ながら29試合に登板し、1勝1敗、防御率2.86と安定感を発揮し、チームのプレーオフ進出に大きく貢献した。しかし、シーズン後に行われた契約更改は不調に終わり自由契約となった。
日本ハム退団後、東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストに合格し、同球団に入団。2006年には40試合に登板し、2勝2敗12ホールド、防御率4.88を記録している。
引退後、巨人に戻り、ジャイアンツアカデミーのコーチや打撃投手を務めた後、2010年に同球団の二軍投手コーチに就任。
2012年にコーチを退任し、ジャイアンツアカデミーの講師に就任。現在も同職を務めている。
人物・エピソード
球速以上に速さを感じる力のある直球を武器に、凡打の山を築いたリリーフエース。その直球のキレは「わかっていても打てない」とまで言われた。
ロッテ・日本ハム・楽天と、球団創設または球団名が変更されるタイミングでの初年度在籍を3度経験している。
通算成績
投手成績
通算:16年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 500 | 0 | 0 | 36 | 43 | 95 | 14 | .456 | 637.2 | 294 | 634 | 281 | 253 | 3.57 |
獲得タイトル・表彰
関連動画
関連項目
- 0
- 0pt