1942年の全国中等学校野球大会とは、1942年(昭和17年)に行われた中等学校の野球大会である。
下記の理由により、歴代には数えられていない。
通称「幻の甲子園」。
概要
太平洋戦争が始まった翌年の1942年、文部省とその外郭団体「大日本学徒体育振興会」が、前年に中止された「全国中等学校野球大会」を「大日本体育振興大会」の中学野球大会として開催することになった
この時、主催が従来の朝日新聞社から文部省に移された。朝日新聞が要求した「大会回数の継続」と「大会優勝旗の使用」は却下された。正式名称は「第1回全国中等学校錬成野球大会」である。1回で終わったけど
出場校
- 北海道
- 北海中
- 東北
- 仙台一中(宮城)
- 関東
- 水戸商(茨城)
- 京王商(東京)
- 北陸
- 敦賀商(福井)
- 中部
- 松本商(長野)
- 東海
- 一宮中(愛知)
- 近畿
- 平安中(京都)
- 市岡中(大阪)
- 海草中(和歌山)
- 中国
- 滝川中(兵庫)
- 広島商(広島)
- 四国
- 徳島商(徳島)
- 九州
- 福岡工(福岡)
- 大分商(大分)
- 台湾
- 台北工
大会の概要
主催が文部省(実質、軍部)なので、軍事色の強い大会となった。
- ユニフォームのローマ字の使用を禁止。全て漢字に統一。
- 大会直前に出場選手の年齢制限を「20歳」から「19歳」に変更。
- スコアボードには「勝つて兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう第東亞戦」の横断幕。
- サイレンの使用禁止。代わりに使われたのは進軍ラッパ。
- 選手は「選手」ではなく「選士」と呼ばれた。
- 勝利校の校歌は中止。
- 打者は球をよけてはいけない。打者が球に当たっても死球にならない。
- 試合に出場できるのは、1チーム9人のみ(スタメンの9人だけで、最後まで試合が行われた)。選手の交代は、原則として認められない。
- エラーをした選手を軍人が殴りにきた。
- 場内放送で、召集令状が届いた観客の名前が読み上げられると拍手が起きた。
理不尽極まりない大会だったが、よほど娯楽に飢えていたのか、甲子園球場は連日、立ち見が出るほどの盛況だったという。
朝日新聞「鉄道輸送を戦争優先にするっていうから、泣く泣く大会を中止にしたのに…」
試合結果
1回戦
2回戦
準決勝
決勝
※平安中は、前日の準決勝の試合が中止となったため、準決勝と決勝の当日ダブルヘッダー
大百科に記事のある「出場選士」
その後
- 優勝した徳島商には、一枚の賞状だけが渡された。
- 優勝した徳島商は、1947年の第19回選抜中等学校野球大会で優勝。「公式に」甲子園大会優勝校となる。
- 徳島商優勝メンバーの須本憲一は、後に母校の監督となり、1958年の第40回夏の甲子園大会で板東英二を擁し準優勝する。
- 準優勝の平安中・富樫淳投手も後に母校の監督となり、1956年の第38回夏の甲子園大会で優勝する。
- 1977年(昭和52年)。当時の文部大臣、海部俊樹の名義で徳島商に賞状と優勝盾が贈られた。「幻の甲子園」から35年後のことだった。
関連項目
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