邪馬台国とは弥生時代に日本のどこかに存在した国である。
様々な説があるがその場所は定かではない。
概要
当時の日本では文字で歴史を記録していないため、この時代の歴史は中国の歴史書にわずかに登場する日本(倭)の記述のみが頼りとなる。
つまり「三国志」の中の「魏書」の中の「東夷伝」の中の倭人に関する一節、よく言うところの「魏志倭人伝」が邪馬台国に関するほぼ唯一の文献資料である。それによると、
倭国の中で長期の内戦があったのち、卑弥呼という女性を邪馬台国の王にすることによって争いを収めた。彼女は「鬼道」 に長じ、うまく人々の信頼を受けて支配している。夫はいないが、弟が政治を補佐している。
彼女は魏の皇帝に使者を送り「親魏倭王」に任じられ、金印を授けられた。
彼女の死後、大きな墓を作り、100人を超える奴隷が殉葬された。男の王が即位したが争いが絶えず、最終的に卑弥呼の一族である壱与という少女を王にすることによって、ようやく争いが収まった。
・・・といった感じである。そのほかにも邪馬台国が近隣の20数カ国を支配していたこと、その位置や風俗、身分構造などについて書かれている。
邪馬台国はどこにあったのか?
魏志倭人伝には邪馬台国への旅程が下記のように記されているのだが、この記述のままに地図をたどると太平洋上に出てしまうため、邪馬台国の位置を特定するには至っていない。また、卑弥呼の墓や金印といった物的証拠も発見されていないため、様々な人々が自らの思う邪馬台国論を唱えている。
江戸時代後期に新井白石が「大和国(奈良県)」にあったと説き、後に新井白石が「筑後国(福岡県)」にあったと説いたのが議論の始まりとされている。そう、発端はコイツである。
その後、本居宣長が「九州熊襲説」を提唱するなど、今日に至るまで結論の出ない論争が続いている。
主な説としては、上記の「近畿説」と「九州説」が有名。しかし、やれ諏訪だ、山梨だ、インドネシア、エジプト、海底都市、竜宮城、と様々な説もある。
東洋史学者の岡田英弘氏や文芸評論家・歴史オタクの小谷野敦氏のような知識人はそんなもの実在しないか規模が小さすぎて見つからないのだろうと述べている。
魏志倭人伝の記述
- 朝鮮半島沿いに航行して、馬韓を経て東へ南へ7000里で倭の対岸、狗邪韓国に至る。
- 海を渡って1000里で対馬国。
- さらに南へ海を渡って1000里で壱岐国。
- また海を渡って1000里で末盧国
- 東南へ陸路で500里で伊都国(邪馬台国に服従している)
- そこから奴国まで東南へ100里
- 不弥国へは東へ100里
- 投馬国へは南へ船で20日
- 邪馬台国へは南へ船で10日、陸路で一か月
- (その南に狗奴国があり、邪馬台国には服従していない。)
- 帯方郡から邪馬台国までの距離は12000里
※1里≒80mという説と1里≒400mという説が存在する。
前述の通り、この記述だと太平洋上に到達するため、解釈を加えてどうにか日本国内に到達するように様々な説が唱えられている。
放射読み(伊都国から先は伊都国を起点にする読み方)や、方角を修正(南→東など)などする読み方、古代の地図が間違っていたとする説など実に様々。
なぜ場所が問題なのか
ところで、なぜ邪馬台国の場所を特定する必要があるのか。その大きな理由として大和政権の成立に関する問題がある。
仮に近畿に邪馬台国があったとすると、3世紀にはすでに近畿~北九州を支配する勢力があったことになり、この勢力が大和政権につながったと考えることができる。
一方、九州に邪馬台国があったとするならば、日本における統一権力の登場はより後の時代になる。
ちなみに邪馬台国が大和政権によって滅ぼされた説と邪馬台国が東遷して大和政権へつながった説とがある。
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