コブラ台風(Typhoon Cobra)とは、大東亜戦争中の1944年12月14日から19日にかけて発生した熱帯低気圧のアメリカ側呼称である。日本側に被害は無く、アメリカ艦隊にだけ大損害をもたらした事から「神風」と称される事も。
1944年10月17日、アメリカ軍は大戦力を以ってフィリピンのレイテ湾に襲来。橋頭堡を築き、フィリピン奪還の足がかりとした。総力を挙げて出撃してきた帝國海軍をレイテ沖海戦で破り、制海権・制空権ともに我が物とした。続いてオルモック湾に増援を送ろうとする日本側の意図を押しつぶし、今やフィリピンの戦いはアメリカ優位で進んでいた。たびたび飛んでくる特攻機…カミカゼに悩まされながらも日本軍の抵抗を粉砕して着実に歩を進めた。だが、カミカゼは特攻機だけではなかった。
1944年12月14日、フィリピン東方にてコブラ台風が発生。進路を西北西に向けたが、次第に北西へ変更。その頃、ルソン島東方約500kmの地点をジョン・S・マケイン中将率いる米第38任務部隊が航行していた。観測により台風の接近を知ったアメリカ軍は、重心が高いファラガット級駆逐艦などが危険にさらされるとして早めの燃料補給を命じた。
12月17日、米第38任務部隊は航空支援を切り上げ、台風から逃れるため東方海域へと移動。燃料補給を開始した。海は荒れ始めていたが、台風の進路から外れたので大した被害は無いと上層部も艦隊も思っていた。しかし天候悪化は止まらず、正午頃には補給作業を断念せざるを得なくなった。そんな中、空母ワスプⅡのレーダーが北方65kmに台風を捉えた。なんと台風が進路を変え、米第38任務部隊の眼前に飛び出してきたのである。台風は異常に強い勢力を持っており、最低気圧907ヘクトパスカルに達していた。暴風域は風速55m規模であり、人類が経験した事がない最強クラスの風を伴っていた。そうとは知らず第38任務部隊は、恐るべき破壊力を持つ台風を軽視していた。12月18日朝、マケイン中将の上官ハルゼー大将は「避けずに突破せよ」と命令。この致命的な判断ミスが、悲劇的な結果を招く事になってしまった。
一方で荒波の影響で針路変更が出来ず、台風に突っ込んでしまったとする説もある。
台風の勢力内に巻き込まれた第38任務部隊は雨風と波浪に翻弄された。レーダーはたちまち使用不能になり、艦隊間通信も使えなくなり、操舵すら困難だった。駆逐艦のような小型艦は波に飲まれ、一瞬沈没したかと思いきや急に跳ね上げられる縦揺れに苦しめられた。戦艦や空母といった大型艦ですら容易に揺さぶられ、陣形の維持どころか航行にすら支障発生。インデペンデンス級軽空母カウペンスとモンテレーからは固定していたはずの艦載機が吹っ飛ばされ、海に落下。格納庫内では傾斜で機体が壁に激突し、爆発炎上。モンテレーに至っては機関部が停止し、漂流する事態に陥った。12月18日午前11時頃、フレッチャー級駆逐艦スペンスとファラガット級駆逐艦ハルの機関部に海水が流入し航行不能となる。30分後に2隻は横転、沈没した。ファラガット級モナハンも同様に転覆・沈没の末路を辿った。
台風の影響で駆逐艦3隻が沈没。軽空母4隻、護衛空母4隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦10隻、支援艦艇3隻を損傷。喪失した艦載機は183機に上り、800名の将兵及び乗組員が犠牲となった。第一次ソロモン海戦以来の大損害であり、戦わずして戦力を失ってしまった。無謀な指示を出したハルゼー大将と責任者のマケイン中将は査問会にかけられたが、国民的人気の大きいハルゼーは世論に配慮して不問となった。しかしマケイン中将は更迭されてしまった。アメリカ軍はこの台風を「コブラ台風」と名付けた。
余談だが本土で本格的な修理を受けるため、マニラから呉へと向かっていた竹(松型駆逐艦)もコブラ台風に遭遇しているが、日本艦艇は第四艦隊事件でしっかり台風対策が施されていたので大破状態ながら無事呉へ到着した。
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最終更新:2025/12/20(土) 01:00
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