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ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア単語

ジョンフォーブスナッシュジュニア

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ジョン・ナッシュ

この男は、

 

天才である

本来ならこの一言が全てなのだが、それではあんまりなのでもう少し説明する。

ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアとはアメリカ数学者、経済学者である。1994年ノーベル経済学賞受賞。

概要

ゲーム理論の非協ゲームにおいて「ナッシュ均衡」と呼ばれる解を発見した有名人ナッシュ均衡はゲーム理論を学ぶものならまず最初に習うである。彼が発展させたゲーム理論現在経済学をはじめ政治学や行動分析学などで広く用いられている。

彼は生きた人生どを精病に苛まされ、波乱万丈の時間を過ごしている。ナッシュの生涯はハリウッドによって映画化され、その映画「ビューティフルマインド」は世界ヒットとなった。ノーベル賞かしい賞ではあるが、受賞者の中で映画スター並みに知名度を高めたのはナッシュを含め数人しかいない。(筆頭はアインシュタインであるが)

彼の業績はナッシュ均衡が有名であるが、ゲーム理論ナッシュの多大な業績の一つにすぎず微分幾何学情報工学においても多くの論文を出している。

2015年5月23日ナッシュは妻とともに交通事故で亡くなった。享年86。

波乱の人生

電気技師のを持つナッシュは1928年、アメリカウェストバージニアブルーフィールドで誕生。幼い頃から童として優れた才を発揮するとともに奇人振りをみせつける。ある人は幼き彼のことを”昆虫”と呼んだ。彼の出すたくさんのアイデアが、余り食いだらけで健全でなかったからだ。少年時代電気化学実験を行い偉大な数学者の伝記を読んで数学への興味を高めていた。

高校の上級生になったころ全で10人にしか与えられないウェスティングハウス奨学を獲得。アメリカの名門カーネギメロン大学(当時はカーネギー工科大学)に入学化学技術を学び始める。しかし彼は化学技術が性にあわず、化学へ転向するがそれもダメ。結局ナッシュ数学の研究に落ち着く。そこで彼は際立った才を示した。その後1948年カーネギ大学ナッシュに学士号と修士号を同時に与えた。また数学以外の選択授業であった経済学で初めて”経済”という学問に触れる。

卒業後彼には二つの進路があった。すなわちハーバード大学プリンストン大学のどちらに進学するかである。結局彼は少しだけ条件の良かったプリンストン大学へ進む。その時カーネギ大学の講師がプリンストン大学へ送った推薦状にはほんの一文"He is a mathematical genius.exit"(彼は天才である)と書かれていた。

プリンストン大学数学部は文字通り世界最高峰のエリートの集まりであった。20世紀最高のデミゴッド(半人半)の住まう場所である。アインシュタイン、ゲーデル、オッペンハイマー、ジョン・フォン・ノイマンなど数学宇宙の中心がここに生息していた。しかしナッシュはそこでもを抜けた実と奇矯さを見せつける。授業には感覚が鈍るといって出席しなかった。この頃からナッシュは見えないお友達とおしゃべりするなど後年苦しむ病気の前兆を見せ始める。

功名心が高く他の数学者を打ち負かせる分野を探していたナッシュプリンストン大学で初めてゲーム理論を学ぶ。当時ゲーム理論は純数学から一段落ちるものと見なされており、あまり真剣に学ぶものはいなかったがナッシュはこれに魅を感じ研究に没頭。結局「非協ゲーム」という論文を提出。これが44年後ノーベル賞を受賞する論文になる。しかし希代の天才ノイマン博士はこの論文を「トリビアル(しょうもない)」と一蹴したというエピソードも。

プリンストン大学卒業後、ナッシュは純数学へと転じ数学界のノーベル賞にあたるフィールズ賞に狙いを絞る。彼はあくまでも有名になりたかった。名誉をめたナッシュ西海ランド研究所へ進む。しかしその後ナッシュは他の分野に興味をしめすようになり、とりわけコンピュータ分野にはまり、行処理に関する論文を提出する。それからポスドクとして再び数学の研究に戻り幾何学的物体や等長埋め込み定理の発見など多数の数学的発展に貢献した

だが、ナッシュは最終的にフィールズ賞を取ることはできなかった。フィールズ賞は4年に一度でありナッシュは既に30歳をえていた。数学者にとって30歳というのはアスリートの30歳と同じような意味を持つ。彼は最盛期を既に過ぎていたのだった。同僚からも「非常に厚かましく自己中心的。数学的才でそれを許容されていたにすぎない」と好かれてはいなかった。

しかしMIT時代に彼の教え子であったアリシア・ラルデと結婚するなどの人生の幸運にも恵まれる。当時アリシア21歳。800人の学生の中で16人しかいないMITの才媛である。だが彼女が妊娠した時、ナッシュ最大の不幸が始まる。ナッシュは偏執狂分裂症、いわゆる統合失調症を発症してしまう。それも酷いレベルで。

病気になったナッシュは、講義中に「自分がローマ法王の格好をして雑誌ライフの表になった」などと言ったり、「自分は各政府の要人と付き合いがある」と言ったり、南極大陸皇帝を自称したりと散々なことになっていた。一週間ごとに人格が変わり、結局MITも辞めざるを得なくなる。挙げ句の果てに「自分は共産主義者に狙われている」といいヨーロッパに亡命してしまう。経済的困窮に直面した妻アリシアナッシュを入院させる。入院したナッシュを待っていたのはインスリンを大量注射して気絶を繰り返す、も背けたくなるような長い長い闘病生活であった。

退院したナッシュのようになっていた。当時無職だった彼を見かねた元同僚がプリンストン大学ポストを作るもナッシュ妄想を繰り返しその度に仕事を投げ出してしまう。そうしてナッシュプリンストン大学に住み着く幽霊となった。学生からは過去の人と揶揄され、いスニーカーを履いて歩き回るその姿は昔の栄を感じさせないみすぼらしい物であったという。

そんな生活を25年ほど続けているうちにナッシュ病気は徐々に回復に向かいつつあった。そして同時にその頃、ナッシュノーベル賞補にのぼり始める。しかし彼は毎年受賞を逃した。その理由はナッシュ病気であったこと、そして彼がかつて所属していたランド研究所が核の実験をしていたため平和を旨とするノーベル賞にふさわしくないとされたからだ。しかし彼は1994年、夢にまで見たノーベル経済学賞を44年越しに受賞する。

ノーベル賞は色々と彼に良い影をもたらした。まず第一にお金を獲得できたこと。ナッシュお金に困っていたのだ。ノーベル賞の賞は約一億円。彼にとっては大も大である。最終的にノーベル経済学賞は3人同時受賞だったので賞も三等分になった。残念。

だが、受賞をきっかけにナッシュ健康を取り戻し始めた。研究資を得て研究生活を再開し、時に論文を書き、時にプレゼンテーションを行い、家族や友人たちとの社会生活を取り戻したのであった。

2015年5月19日ナッシュ数学における名誉ある賞である「アーベル賞」を受賞した。だがそのわずか4日後の23日、乗っていたタクシー事故を起こし、妻とともに外に投げ出されてそのまま亡くなった。シートベルトを締めていなかったという。天才ナッシュの、あまりにもあっけない人生の幕切れであった。

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