マルグレーテ1世 単語

マルグレーテイッセイ

3.6千文字の記事

マルグレーテ1世1353~1412)とは、カルマル同盟を結成させたデンマーク王室の人物である。
勘違いされがちだが、彼女は王ではない。

概要

ヴァルデマ2世後のデンマーク混乱を、父親のヴァルデマー4世に続いてさらに立て直し、カルマル同盟を作ったの(?)フィクサー。メクレンブルクとの戦いに勝利したものの、彼女の死後にカルマル同盟はスウェーデンの躍進で次第に形骸化が進んでいく。

ここまでのあらすじ

ヴァルデマー時代以降の混乱

デンマークの内乱を終わらせたヴァルデマー1世に始まるヴァルデマー時代は、1223年のヴァルデマ2世監禁によってその終わりが始まった。ヴァルデマ2世は3年後に解放されたものの、ボーンフーヴェズの戦いで憎きハインリヒに敗北。結局ドイツの領土を回復できなかったのである。さらに前妻の子であったヴァルデマーをも失ったのである。

しかし、ヴァルデマ2世の時代はまだ、法の制定者として機した王によって秩序が保たれたままであった。ところが、ヴァルデマ2世の後妻の3人の子、エーリク4世、アーベルクリストファ1世が相争う混乱期に入ったのである。

ヴァルデマ2世はエーリク4世を王にさせ、他の息子公爵にすることで継承順を定めて亡くなった。ところがエーリク4世とアーベルはスリースヴィ公爵をめぐって相争い、互いに疲弊していったのである。疲れた両者は和しようとするが、その席でアーベルはエーリク4世を殺。しかもアーベル関係を装って王位に就いたのである。

アーベルは2年後に別の戦いであっけなく死に、クリストファ1世が王となった。アーベル息子・ヴァルデマーはスリースヴィ公爵とさせられ、このヴァルデマーはホルシュタイン伯と手を結んでこれに抵抗する。以後、アーベル系統のスリースヴィ公爵と、クリストファ1世系統のデンマークとの戦いが続いていく。

さらにクリストファ1世はヴィーゼ大司教・ヤコブ・エアランスンとも争う。かつての側近一門も権勢を増してを分けたのである。その上、クリストファ1世はこの戦い中に急死。息子のエーリク5世が1259年に幼くして即位。ところが王と大司教との戦いは続き、即位章の制定も意味であった。エーリク5世は1286年に犯人もわからない状態で暗殺され、息子のエーリク6世が後を継いだ。

エーリク6世は父親の殺犯探しの結果内乱を加速させ、大司教・イェンス・グランとの戦いに勝利したものの、この結果として教皇からは破門おまけに騎試合に狂い放蕩に励んだ王は土を質に出し、ホルシュタイン伯のギアト3世、ヨハンの両名がデンマークの領土を著しく握していった。

デンマークの解体

エーリク6世の死後、クリストファ2世が後を継いだ。デンマークの有力者たちはギアトとヨハンのホルシュタイン伯側につき、クリストファ2世デンマークから追い出されすらしたのである。もはやデンマークというはなく、分裂した土はドイツ系の諸侯が支配していたのである。

そこで対抗営として立ち上がったのが、スウェーデン王・マグヌス・エーリクソンであった。ところがギアトが勝利し、禿伯爵あだ名されながら、デンマークはホルシュタイン伯に抑えられた状態は続いていた。

かくして、ニルス・エベスンという貴族が、ギアトを暗殺。ギアトの息子との戦いにニルス・エベスンは敗死したものの、反乱に与したのが、クリストファ2世息子・ヴァルデマー4世であった。

父・ヴァルデマー4世の時代

ヴァルデマー4世は、クリストファ2世落後、亡命状態だった。ところが1340年のスリースヴィ公爵との婚姻で一部の領土を手に入れると、反乱を利用して20年かけて復権を遂げたのである。

かくしてヴァルデマー4世は、スコーネをめぐってスウェーデン王のマグヌス・エーリクソンと手を結ぶことを決めた。ヴァルデマー4世はのマルグレーテをマグヌス・エーリクソンの息子ノルウェーを領有していたホーコン6世にがせた。さらに隙を見てスコーネを実力で奪い取り、デンマーク土を回復させたのであった。

1361年にゴットランドをも領域に加えたヴァルデマー4世は、1360年代にハンザ諸都市や、スウェーデン王を継いだメクレンブル公爵アルブレヒト・ア・メクレンブルクとの対決が進んでいく。この戦いは1370年のシュトラールズントの和議で痛み分けとなって決着した。

ついには、アーベルの子孫が絶えたのを見届けると、スリースヴィも握しようとし、あと一歩のところで……そう、あと一歩のところで1375年にヴァルデマー4世は亡くなった。

マルグレーテ1世の時代

この間・マルグレーテ1世は、御付きのミレーテとともにノルウェーにあり、息子のオーロフをも生んでいた。ところが、ヴァルデマー4世が亡くなると、まだ5歳のオーロフ3世が即位させられ、後見役として母親彼女が統治に加わったのである。

この事態に対し、ホルシュタイ伯爵の侵攻などが相次いだ。一方で、夫・ホーコン6世が亡くなると、このオーロフオーラヴ4世としてノルウェー王になったのである。さらにアルブレヒト・ア・メクレンブルクを苦々しく思っていたスウェーデンの諸侯はオーロフを迎えようと計画を始めた。

ところが1387年にオーロフが亡くなる。マルグレーテは権力基盤を失った、はずであった。

カルマル同盟の誕生

オーロフの死後、デンマークノルウェーは直ちにマルグレーテ1世を最高権力者として認め、スウェーデンアルブレヒト・ア・メクレンブルクに反乱し、ファルチェビングの戦いでマルグレーテ1世との連合軍が勝利したのである。かくして、マルグレーテ1世はデンマークスウェーデンノルウェー実質的な王となってしまったのである。

マルグレーテ1世は、自分の代わりに王としてインゲボーの孫でポンメル公爵・エーリク・ア・ポンメルンを養子にして迎え入れた。1397年にカルマルで会議が開かれ、三国が単一の王を掲げるカルマル同盟が結成されたのである。

マルグレーテ1世の統治は、デンマーク教科書にさえ、狡猾ともしみやすいとも揺れて書かれている力の高い優れたものであった。かくして、ペストにかかった彼女は、1412年にフレンスボーで亡くなった。

カルマル同盟の解体~オレンボー朝の成立~

マルグレーテ1世亡き後、エーリク・ア・ポンメルンが最初に取り組んだのは、ホルシュタインに奪われたままのスリースヴィ伯領の回復である。さらにハンザ同盟との戦いも続き、戦費がかさんでいくことは特に関係のないスウェーデンの諸侯を怒らせていった。エーリク・ア・ポンメルンは追放され、ゴットランド海賊になったともいわれている。

続いて王に迎えられたのがエーリク・ア・ポンメルンのの子・クリストファ・ア・バイエルンである。が1448年にあっけなく亡くなり、彼が三国に選ばれた最後の王となった。

ここで迎えられたのが、クリスチャン・ア・オルデンブルクである。クリスチャン1世として即位した彼だったが、スウェーデンの諸侯はもう外国人の王にうんざりしており、対抗としてカールクヌートソンを担ぎ上げつつあった。

クリスチャン1世はこれに勝利したものの、今度は大ステーン・ステューレと呼ばれる別の貴族が対抗となる。ブルンケベリの戦いに敗れたた一方、スリースヴィの方の叔父アードルフの死後ホルシュタインをスリースヴィと合体させて領有したクリスチャン1世。ところが、この領有に金を使いすぎたのであった。

クリスチャン1世の死後、息子ハンスが後を継ぎ、大ステーン・ステューレに対抗するスウェーデンの諸侯はハンスを招き、1497年に再度三国の王となったのである。ところが、スリースヴィ=ホルシュタイン領をのフレゼリク分割統治する予定がディトマシェンの遠征に失敗したうえ、結局スウェーデンの諸侯も大ステーン・ステューレを選んだのであった。

そしてハンス息子クリスチャン2世が最後の同盟の王となった。彼は側室のデューヴェケの死を貴族・トーベン・オクセの陰謀だと思い、多数の助命嘆願を無視して処刑した。さらに、小ステーン・ステューレを討ち取ると、1520年に「ストックホルムの血浴」と呼ばれるスウェーデン貴族の大虐殺を行い、グスタフヴァーサ、後のスウェーデン王・グスタフ1世の台頭を招く。

かくして、クリスチャン2世は除かれていき、叔父・フレゼリク1世が王となった一方で追放されてしまう。以後、フレゼリク1世の系統がオレンボー(オルデンブルクのデンマーク語表記)としてデンマークノルウェー王位に在り続けたのであった。

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