メルセルケビール海戦とは、第二次世界大戦中の1940年7月3日に生起したヴィシーフランス軍vsイギリス海軍の戦闘である。結果はイギリスの戦術的勝利、戦略的敗北であった。
1940年6月25日、連合国の一角であったフランスがドイツ軍に降伏した。しかし降伏寸前に海軍の艦艇はブレストやロリアンから脱出し、アフリカのダカール、メルセルケビール、オランといった海外の拠点へと逃げ込んだ。全体で見ると40%がフランス南部のトゥーロンに、40%が北アフリカの沿岸に、残り20%がイギリス本国、アレクサンドリア、西インド諸島にあった。フランスの戦いは陸上で行われていたため、海軍はほぼ無傷の状態で残っていた。これらの艦艇は、降伏後に樹立された親独のヴィシー政権によって管理される事になったが、乗組員の対独意識は依然として高く、イギリスとともに再びドイツと戦うと考えていたという。
しかし、当のイギリスには別の思惑があった。特に地中海の入り口付近に位置するメルセルケビールには旧式戦艦プロヴァンス、ブルターニュ、新鋭巡洋戦艦ダンケルク、ストラスブール、水上機母艦、6隻の駆逐艦など有力艦が集結しており、補給路を脅かしかねない危険な存在だった。もしドイツ軍に接収されようものなら地中海方面の補給事情が一気に悪化してしまうだろう。イギリス海軍はカタパルト作戦を立案し、メルセルケビールのヴィシー艦艇を接収ないし撃沈してしまおうと考えた。
1940年7月3日、アレクサンドリアよりイギリスの大艦隊が出撃。巡洋戦艦フッド、戦艦バリアント、空母アーク・ロイヤルを含む強力な艦隊はその日のうちにメルセルケビールを包囲した。交渉役には、フランス語が堪能な空母アークロイヤルのホランド艦長が据えられた。イギリスは「連合国側として参戦するか、一斉に自沈するか、艦の引き渡し」をヴィシーフランスに要求した。回答するのは旗艦の巡洋戦艦ダンケルクに座乗するマルセル・ゲンスール提督だったが、「ドイツの顔色は窺いたい、でもかつての仲間と戦う事もイヤ」という気持ちに板ばさみにされ、優柔不断を招いてしまう。またイギリス海軍は戦闘に備え、アークロイヤルの艦載機を使って湾口に機雷を敷設するという露骨な敵対行動を見せ始めた。これに対し、ヴィシーフランス軍はH75ホーク戦闘機を出撃させ、1機のスクアを撃墜している。時間の経過とともに両軍は一触即発の状態になっていき、最初はイギリスとともにまた戦えると喜んでいたヴィシーフランス兵も顔色が青ざめていった。
16時15分、ホランド艦長がダンケルクに来訪。説得の結果、マルセル提督は武装解除に応じた。これで円満に解決するかと思いきや、実は既に手遅れだった。事態の解決を急いだチャーチル英首相が「問題を早急に解決せよ」と急かす命令を送り、これが事実上の攻撃命令としてイギリス艦隊に下されたのである。決断が、遅すぎたのだ。
17時54分、イギリス艦隊の一斉砲撃で戦闘は始まった。三度目の一斉砲撃で旧式戦艦ブルターニュが被弾し、18時9分に977名の乗員とともに沈没した。プロヴァンスと駆逐艦3隻も損傷し、ヴィシー側は苦境に立たされる。というのもヴィシー側は大規模戦闘を想定しておらず、戦闘に不向きな形で各々停泊していたからだった。旗艦ダンケルクは艦首を陸岸に向けていたため、副砲での反撃しか出来なかった。そこへフッドの砲弾が機関部に直撃し、航行不能に陥った。ストラスブールは駆逐艦3隻と砲艦1隻を率いて抜錨。アーク・ロイヤル艦載機の襲撃をかいくぐって港外への脱出に成功した。ヴィシーフランス艦隊も何とか反撃に転じ、ソードフィッシュ2機を対空砲火で撃墜している。
戦闘は20分程度で終結。イギリス艦隊はジブラルタルへ引き上げていった。18時43分、イギリス艦隊は軽巡洋艦エンタープライズとアレトゥサに追撃を命じ、逃亡したストラスブールを追わせた。幸運な事にストラスブールは虎口を脱し、翌4日にトゥーロンに到着した。
ヴィシーフランスの被害は甚大であった。戦艦1隻を喪失し、ダンケルクは中破、他にも4隻の艦艇が損傷、戦死者は約1200名にのぼった。イギリスの不義に激怒したヴィシーフランスは7月5日に断交を宣言し、ジブラルタルへ報復の爆撃を行っている。国民の反英感情も高まり、より親独へと近づけてしまっている。
ひどい仕打ちを受けたヴィシーフランスであったが、哀れにも再びイギリス軍から攻撃される事になる。先の攻撃でダンケルクとプロヴァンスに与えた損害は微小と判断したイギリス軍は、この2隻にトドメを刺すべくレバー作戦を開始。ジブラルタルからアーク・ロイヤル、バリアント、フッド、駆逐艦10隻からなるイギリス艦隊が出撃した。
7月8日(7月6日説も)午前5時20分、アーク・ロイヤルから出撃したソードフィッシュがメルセルケビールを攻撃。放たれた魚雷が、ダンケルクの横に係留されていた小型巡視船ヒットテールヌーヴに命中。1400トンものTNTに引火し、その余波でダンケルクの船体に大穴が開く。さらに1本の魚雷が撃ち込まれ、満身創痍になったダンケルクは沈没を防ぐため意図的に座礁した。この日もヴィシーフランスは手酷くやられたのだった。
海戦の結果だけ見れば、イギリス海軍の勝利であった。しかしかつての味方に銃を向けた事でヴィシー側に不信感を抱かせ、英仏共闘路線は完全に潰えてしまった。英地中海艦隊のサマヴィル司令は「史上最大の政治的失敗であり、我々は恥ずかしい」と嘆いている。
この一件ですっかり反英に傾いたヴィシーフランスは、以降イギリス軍相手だと非常に高い戦意を見せて戦った。約2ヶ月後に生起したダガール沖海戦ではメルセルケビールの恨みを晴らさんとばかりに抵抗し、イギリス軍の援護を受けた自由フランス軍を撃退。1942年5月5日から始まったマダガスカルの戦いでも食糧や物資が尽きるまで降伏しなかった。まさにイギリスの戦術的勝利、戦略的敗北であった。
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最終更新:2024/12/03(火) 01:00
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