伊東義祐 単語


ニコニコ動画で伊東義祐の動画を見に行く

イトウヨシスケ

3.5千文字の記事

伊東義祐いとう・よしすけ 1512 ~ 1585)とは、日向戦国大名である。

概要

伊東氏16代当。佐土原拠点として日向全域に版図を広げ、戦国大名伊東の最盛期を築いた。一方で官位は従三位にまで昇り、出後は「三位入異名をとった。

だがやがて、その権勢に酔ってしまう。気がつけば島津四兄弟の攻撃を前に敗北に次ぐ敗北を喫し、その後は崖を転がり落ちるかのごとき転落人生を送る。晩年は各地を流浪した末にするが、その最期はかつてのやかさからは想像できない寂しいものだった。

生涯

伊東尹祐の次男。初名は伊東伊東祐充伊東祐吉とは同兄弟で、三兄弟を産んだ(側室)は臣・福永昺のである。

が1523年に死去して、充が14歳督を継ぐと、祖父筋にあたる福永一族が中を専横するようになる。元々は軽い身分だった福永氏の台頭に伊東中には不満が渦巻いていた。そんな中で、1533年に充が若くして死去する。

後継者争い

の死で、次である清(義)が跡を継ぐものかと思われた……が、引き続き福永一族の権勢が続くであろうことを嫌った叔父伊東武がクーデターを起こし、福永昺らを殺した上、本拠地・都を占拠してしまった。脱出した清と吉は、荒武三省ら臣団に助けられて反撃に転じ、叔父自害に追い込むことに成功する。

これで今度こそ跡を継ぐと思われた……が、肝心の荒武三省が討死してしまい、伊東祐吉を擁立する長倉省が台頭したため、出に追い込まれてしまう。こうして吉が当となるが、1536年にくも病死してしまった。

色々あったが還俗し、三度目の正直で当となった。翌1537年に将軍からの偏諱を拝領して伊東義祐と改名。1541年には長倉が反乱するが、これを打倒。1546年には従三位となる。この後再び出したことで「三位入」と称されるように。

日向掌握

当時の日向は、北部はを本拠とする土持氏が、南部は都から佐土原に本拠を移した伊東氏が、それぞれ最大勢力となっていた。とはいえ南日向には付近を中心に、敵対勢力がまだいくつか残っていた。

  • 第一は薩摩および肥後との付近、西の幸院(まさきいん。現えびの近辺)を領する北原氏。
  • 第二は大隅付近、南西の都之を領する北郷氏。
  • 第三は同じく大隅付近、南の飫肥を領する島津豊州。(北郷氏とは近縁)

1560年頃からの約10年をかけて、特に飫肥に対しては九度にも渡る侵攻を仕掛けるなど、拡大方針を執った。北原氏に関しては後継問題に介入して事実上勢力を乗っ取った。

飫肥奪取は祖父伊東の時代からの悲願であり、義もこれに全力を注ぎこんだ。そして1568年に遂に飫肥城が陥落。これをもって伊東過去最大の版図を築き上げ、佐土原を中心として北東は塩見に北西は高千穂の三田井氏をその下に加え、南西は幸院の深く、南東は飫肥までを領し、延岡と都周辺を除く(ほぼ)日向全域に伊東四十八と称される一大勢力圏を完成させたのである。

これが伊東義祐の最もかしい間だった。もう何も恐くない

栄枯盛衰

こうした勢力拡大に従って、義も権勢に耽るようになってしまう。佐土原は文化で栄えていたが、一方で従兄弟伊東(帰斎)が重用されて専横を振るうなど、中には不穏な空気が流れ始めていた。まるでどこかのガチホモさんみたいですね……。

そんな中、既に督を譲っていた息子伊東義益1569年に24歳の若さで病死してしまう。これをに、伊東落の一途を辿り始める。

1572年、幸院に残る未支配地を奪いとるため、島津義弘が領する加久を攻撃する(指揮官はかつて反乱した叔父伊東武の子、伊東安)。この時、本来は相良義陽と共同で攻めるはずだったのだが、義の計略に引っ掛かり相良は撤退してしまった。それでも島津わずか300に対し、伊東3000と兵力差は圧倒的であり、既に攻めのルートも調済と「大丈夫だ、問題ない」…はずだった。

が、実はこのルート島津スパイによる偽情報で、伊東軍は思いっきり攻めにくい崖っぷちを進む羽になる。仕方なく一旦退却・休憩していたところに義の奇襲を受け、次々現れる兵の前に、安らほとんどの将が討死するという大打撃を受けてしまった。この木崎原の戦いは「九州狭間」と名高く、まさに島津伊東の形成逆転のきっかけとなる出来事だった。

1577年までには次々と落とされていき、飫肥城も包囲されてしまった。帰斎らに対する恨みも加わって、重臣やが次々と島津寝返り始める。更にこれを好機と見たの土持氏も南進してきた。味方に救援を出そうと思ったら、また新たな寝返りが判明して救援どころではない、という酷い有様。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ

流浪、そして

1577年12月、遂に伊東義祐は日向を捨てて、豊後の大友宗麟の下へ亡命する事を決めた。ところが、この中でもまた寝返りが判明、沿いの平野ルートが使えなくなり、高千穂の険しい山中逃げ延びる羽になる。

たすけてそーりん!」と泣きついた義だったが、翌1578年、日向に攻め込んだ大友軍はの戦いフルボッコにされてしまった。これ以降は大友氏も順調に傾いていく。義の存在がこの状況を招いた根本原因とも言えるので、流石大友中からの視線は冷たく、再び一族を伴い旅立つことになる。(伊東マンショなど、豊後に残った一族もいる)

四国河野氏にしばらく世話になっていたが、やがて遠い遠い戚(というか先祖が同じというレベル)の尾伊東氏の一族が羽柴秀吉に仕えていると聞き、1582年、播磨へと渡った。こうして三男の伊藤兵は織田・羽に仕えることになる。しかし年老いた義、こんな有様になってもプライドだけは捨てきれなかったらしく「この伊東三位入が羽なんぞに頭を下げてたまるか!」と、頑なに秀吉への謁見は拒否したという。

こうした落時代を支え続けた臣には川崎長、九州で対島津の抗戦を続けた旧臣には山田らがいる。

その後は勝手気ままに流浪の旅に出たが、さすがに歳には勝てず病を得たため、兵の住むへと帰ることにした。ところが、そのの中で病状が悪化してしまう。そして近くまで来たところで「この病人ジジイ面倒くせえ…」と頭に辺に置いてけぼりにされてしまった。行き倒れになって死にかけている義を、兵の臣が偶然発見したお陰で息子たちに看病されるが、最手遅れで数日後に死去した。享年74歳。

子孫

伊東義益の死後、伊東督は息子(義の孫)の伊東義賢が若年で継いでいた。彼は豊後に残ってキリシタンとなるが、文の役で病死した。色々あったせいか歴代当にはカウントされていない。かわいそうに…。

秀吉の臣下となった三男・伊東兵は以降も順調に功績を重ね、九州征伐の後に飫肥城へと復帰した。佐土原を初めとした旧領のほとんどは失われてしまったが、かつて義が勝ち取った飫肥の地で、江戸時代を通じて飫肥として存続する。

正遣欧少年使節の一人として有名な伊東マンショ伊東祐益)は、義の孫(の子)である。男系で言うと祖父曾孫という関係。

関連動画

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける伊東義祐の力一覧。やや過小評価気味かもしれない?

吉の存在は大抵無視され、1534(信長誕生)~1577の滅亡まで基本一貫して大名を務める。武力はまあまあだが知略は難あり。臣団も似たような感じで、知略・政治要員の不足に悩まされがちな勢力。息子の義益がその辺をカバーできる力なのだが、すぐ死ぬ。島津の脅威にもされっ放しで、南九州の中でも難易度はやや高め。

軍事 内政
戦国群雄伝 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 65 政治 53 魅力 76 野望 62 教養 63
覇王 采配 76 戦闘 72 智謀 40 政治 60 野望 62
天翔記 戦才 142(A) 智才 80(C) 政才 120(B) 魅力 77 野望 64
将星 戦闘 72 智謀 55 政治 61
烈風 采配 64 戦闘 59 智謀 48 政治 53
世記 采配 65 智謀 35 政治 48 野望 86
蒼天録 統率 63 知略 26 政治 40
下創世 統率 63 知略 27 政治 39 教養 58
革新 統率 70 武勇 65 知略 31 政治 44
統率 70 武勇 52 知略 41 政治 67
創造 統率 66 武勇 56 知略 45 政治 65

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/05(金) 23:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/05(金) 23:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP