キリシタンとは、戦国時代から江戸時代~明治初期まで使用されていた「キリスト教徒」を意味する言葉である。
ポルトガル語で「キリスト教徒」を意味する単語・Cristão(クリスタオ)が由来。
本来はキリスト教信者全般を指す単語だが、日本に伝来したキリスト教(カトリック)の信者や伝道者を指す言葉として使われる。
また江戸時代、鎖国の中にあって貿易を許可されたオランダはプロテスタントで、キリシタンではない。
漢字では「吉利支丹」あるいは「切支丹」と書く。
後者は後年、禁教令に基づく蔑称として使用された。「切死丹」とも。
主な使用例としては、キリスト教に帰依した「キリシタン大名」、禁教令下でも隠れて信仰を続けた「隠れキリシタン」などが挙げられる。
限定された期間中の使用に留まり、現代のキリスト教徒を指す言葉ではない。
また現代のキリスト教徒も、迫害の歴史を想起させる事などからこの呼び名を用いる事はないので注意。
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日したのに始まる日本のキリスト教は、外つ国から伝来した華やかな文化もあって時の為政者の関心を引き、大いに隆盛した。
しかしその後信仰に乗じて影響力を高めようとする諸外国の思惑を良しとせず、信仰を禁じる「禁教令」を発し鎖国した事で、長きに渡る苦難の歴史を辿っている。
キリスト教に帰依し、宣教師を援助して布教を進めた大名。
織田信長や豊臣秀吉(初期)も宣教師を援助したが、改宗はしていないのでキリシタン大名ではない。
1587年、布教に便乗した外国人による植民地化を憂慮した豊臣秀吉が伴天連追放令を発する。この時点では追放令と言いつつも、案外ゆるい処遇に留まっている。
秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させたのが、1596年の「サン=フェリペ号事件」である。
嵐で遭難・漂着したスペイン商船の積み荷に関する問題、および乗組員の問題発言(積み荷を没収しようとするのに抗議し、我が国はその気になれば日本をいつでも征服出来ると口を滑らせた)に端を発し、二十六聖人の殉教という悲劇に繋がっている。
これにより布教活動に陰りが差し、最終的には1613年に徳川政権下で出された「禁教令」により、キリシタン大名は消滅した。
禁教令の後も信仰を続けたキリシタンの事。
厳密には「潜伏キリシタン」という呼び方となり、明治以後も独自の信仰を継承している信者を「カクレキリシタン」と呼んで区別される。
厳しく信仰を取り締まられながらも、秘密組織として存続していた。それでも密告などによって捕らえられ、厳しく信仰を詮議され、棄教を迫られた隠れキリシタンは江戸年間を通じ、少なくなかった。
「オラショ」と呼ばれる口伝で伝来した祈祷文や、聖母マリアを観音像に見せかけた「マリア観音」、ロザリオや十字架を装飾に仕込んだ「納戸神」など、日本独自の信仰として受け継がれていった。
一方で知恵の実を口にしたアダムとイブから始まる「原罪」の観念が消滅しているなど、地域によって教義のいくばくかが変質しているという。
バチカンのローマ教皇庁はこのような教義の相違については言及せず、キリシタンもキリスト教徒であるとして、多様性を容認する姿勢を表明している。
1865年、明治政府による開国後の日本に訪れたフランス人宣教師、ベルナール・プティジャン師が、長崎・大浦天主堂において長崎在住の隠れキリシタンの訪問を受け、禁教令下で300年近く信仰が続いていた事が明らかとなった。
この出来事は「信徒発見」と呼ばれ、プティジャンによって本国フランスに伝えられて広まり、大きな話題となった。
しかしその後も隠れキリシタンが捕らえられて拷問の末に改宗を迫られるなどの苦難があった。「浦上四番崩れ」と呼ばれるこの事件を知った諸外国政府や王族らの抗議もあり、1873年に禁教令は解かれ、信仰の自由が認められるようになった。
2018年6月30日、大浦天主堂・原城跡など、長崎県・熊本県に残る12の関連資産からなる「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録決定。キリシタンの苦難の歴史が語り継がれる一助となると思われる。
迫害によって転んだ(棄教した)キリシタンの事。宣教師は転びバテレンと呼ばれる。
禁教令以来続いた迫害は、まず信仰を捨てるように迫る事から始まる。
キリシタンという理由で殺せばまるちり(殉教)となり、結果的に彼らの信仰や結束をより強くしてしまう事が理由の一つである。
転ぶ基準は様々だが、有名なのは十字架やキリスト像を踏ませる「踏み絵」だろう。
無数の足に踏まれてすり減った踏み絵は現存するものも多く、苦難の歴史の証の一つとして後世に伝えられている。
厳しい拷問に耐えかねて転んだ者は「起請文」に血判を押す事を強いられた。
このうち「南蛮起請」は、日本の神仏ではなく、でうす(神)・あんじょ(天使)・べあと(聖人)に対して「自分は信仰を捨てました。二度とあなたがたを拝みません。この誓いを破ればあなたがたからの罰を受け、地獄に落ちます」と誓わせるものだった。
一見矛盾するようだが、これは自らが信じる神に対する絶縁状であり、血判を押す側の心理を考えると非常にえげつない内容である。
外国からやってきた宣教師が棄教して転びバテレンとなると、日本名を与えられ、小石川の切支丹屋敷(山屋敷)での生活を余儀なくされた。
彼らは専らキリシタン対策に当たり、宗門改(しゅうもんあらため)と呼ばれる宗教対策の業務に携わった。妻を娶ることを許可され、幕府からは扶持を与えられるなど、扱いはそれなりだった模様。
著名な所ではクリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)、ジュゼッペ・キアラ(岡本三右衛門)らがいる。
ちなみに同時代に生きたウィリアム・アダムス(三浦按針)は乗っていた船が漂着した後に家康に謁見、通辞兼相談役となった元航海士であり、転びバテレンではない。
遠藤周作の小説「沈黙」はこの転びキリシタン・転びバテレン(前述のフェレイラ達)を題材にしている。神と信仰の意義を命題とした傑作として、また戦後の日本文学の代表作の一つとして、国内外で高い評価を受けている。
2017年、これを原作とする映画「沈黙-サイレンス-」(監督:マーティン・スコセッシ)が公開された。日本におけるキリシタン弾圧がいかほど厳しかったのかを知る一助となるかも知れない。
その後、弾圧により殉教を遂げたキリシタンの多くが「聖者」「福者」(死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号)として認定されている。その一部を紹介。
意外な話だが、1637年(寛永14年)の島原の乱における戦死者は対象となっていない。
これは宗教弾圧への抵抗というよりは、領主の悪政や旧領主の遺臣・浪人の煽動による百姓の決起と見なされている為である。
また人質に取られる事を拒否し、自らを家臣に介錯させた細川ガラシャも、弾圧による死ではないので殉教者とは見なされておらず、対象とはならない。
1597年(慶長元年)、サン=フェリペ号事件に端を発し、豊臣秀吉の命により処刑された人々。日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人・ポルトガル人各1名。
見せしめとしてフランシスコ会修道士および信徒26名は耳たぶを切られ、市中引き回しの後に長崎に移送。遥かに西方を臨む海辺で見せしめのために磔にされた。
この時12歳のルドビコ茨木の姿を認めて憐れんだ奉行が、棄教と引き換えに助命を勧めたが、少年は「現世の束の間の命と、天国の永遠の命を引き換える事はできません」と毅然として断ったという。
信仰を理由に処刑された初めての例であり、受難の歴史のはじまりとして聖者認定された。
1862年、法王ピウス9世により認可、列聖。
1633~1637年にかけて長崎で殉教した人々。長らく役人の目を掻い潜って信仰を続けていたが捕縛され、拷問、火刑によって殉教した。日本人9名、スペイン人4名、フィリピン人・イタリア人・フランス人各1名。
日本人修道女のうち、大村のマリナは裸にされて市中を引き回されながらも耐え抜き、長崎のマグダレナは美貌ゆえに棄教を進められたがきっぱりと拒否し、それぞれ殉教を遂げたという。
1987年、法王ヨハネ・パウロ2世により認可、列聖。
1622年(元和8年)、長崎で殉教した55名。長崎の大殉教とも。キリシタン迫害の中でも最多の人数が同日に処刑されており、詳細が海外に伝えられた為に知名度が高い。
神父や修道士の他、彼らを匿った信徒は一家全員が処刑の対象となった。女性や幼児が多いのはその為。
この時処刑を見届けた修道士により、後に「元和大殉教図」と呼ばれる油絵がローマに送られ、現存している。竹矢来の中で火刑に処されてゆく人々の様子が描かれており、その凄まじさを今に伝えている。
1868年、法王ピウス9世により認可、列福。
1603年~1639年にかけて殉教した人々。身分を問わず信仰ゆえに命を落とした188人が対象となっており、洗礼名のみ伝わっている者も多い。また殉教の地も多岐にわたっている。
その中でも著名な福者を紹介。
1619年(元和5年)、京都で殉教した信徒52名。京都の六条河原において全員が火刑に処され、あまりの凄惨さに見物人が目を背けたと伝えられる。
哀れを誘う話として知られているのが橋本如庵太兵衛の妻・テクラ橋本で、一度は釈放されながらも再び捕縛された彼女は、5人の子供と共に火刑台に繋がれて火を放たれた。炎と煙に包まれ泣き叫ぶ幼子を抱いた彼女は、「もうすぐ天国へ行けますよ」と言って最後まで慰めたと伝えられている。
天正遣欧使節としてローマへと向かい、教皇・グレゴリウス13世と謁見した一人。帰国後に豊臣秀吉に謁見、その後博多を経て長崎で活動していたが、禁教令を受けて棄教よりも地下に潜伏する事を選ぶ。
その後も九州各地を回りながら信徒への励ましを続けたが1632年(寛永9年)に捕縛され、「穴吊るしの刑」と呼ばれる拷問を受けた。
これは地面に掘った穴の中に逆さ吊りにされ、汚物を投げ入れられ、上に蓋をされたという。これにより全身の血が頭にたまり、文字通り頭が破裂するような激痛に苛まれるという壮絶なものだった。更にこめかみに小さな穴を開けて血抜きを施してすぐには死なないようにし、繰り返し棄教を迫った。
あまりの苦しみに耐えきれずに宣教師のクリストヴァン・フェレイラが棄教、転びバテレンとなる程の拷問に屈する事なく、中浦は「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残して死んだという。
キリシタン大名であり、禁教令後に棄教を拒んでルソン(フィリピン)に追放された武将。詳細は個別記事を参照。
2017年、法王フランシスコにより認可、列福。
掲示板
52 ななしのよっしん
2024/10/05(土) 01:35:33 ID: I9dPR6Gkbt
戦国から安土桃山時代の作品では割と描かれるけど、既存の寺社を破壊したりした点を大きく取り上げないでまるで一方的な被害者みたいに描いてる作品が多いのがひっかかるわ
土着の信仰と馴染まずに仏像や社殿破壊したらそら反発くらうだろとしか思わない
53 ななしのよっしん
2024/11/21(木) 18:05:46 ID: 8RvqNVIQIl
最近は割と野心的な宣教師も出て来たりするけどなぁ(信長を殺した男とか)
ザビエル・トーレス・ヴァリニャーノ・オルガンティノ辺りは適応主義も相まって滅茶苦茶現地文化・風習は尊重してる
カブラルが適応主義全否定&日本人差別酷すぎて信者減らしてしまった→「信長だって比叡山焼いても栄えてるから問題無い!焼こうぜお前等!」「日本人は黒人と同じで下等」「日本語勉強したくないし猿共にラテン語教えたくない」
「信者増えてる」とカブラルの虚偽報告&現状を来日で知ったヴァリニャーノはカブラル解雇して布教方針再修正の中、後続のドミニコ会・フランシスコ会といったイエズス会と不仲&清貧とか教義押し付け型で「現地化もといローカライズ」を滅茶苦茶嫌ってたスペイン系教会が主流になってしまった
ポルトガルが国王がモロッコで戦死・衰退してスペインに吸収されたのもあるが
54 ななしのよっしん
2024/12/22(日) 14:09:23 ID: HRN7mwxeoE
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最終更新:2024/12/22(日) 15:00
最終更新:2024/12/22(日) 15:00
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