大論理学 単語

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『大論理学』とはドイツ哲学フリードリヒ・ヘーゲルの著作である。

概要

第1巻 有論(1812年)、第2巻 本質論(1813年)、第3巻 概念論(1816年)から構成される。本来はただの『論理学[論理の学]』というタイトルだが、別著『エンチクロティ』の論理学(小論理学)と区別するために大論理学と呼ばれる。ヘーゲルの著作というと『精神現象学』が有名であるが、精神現象学の旅路の末に到達した極地にあるのが本著であり、大論理学こそヘーゲル哲学の中心に位置付けられる。

本書はタイトル論理学とあるが「A=B、B=C、よってA=C」というタイプ論理学(形式論理学)とは全く異なる。本書が扱うのは西洋哲学古代から挑み続けてきた形上学であり「存在を存在として研究する学」(アリストテレス)である。ヘーゲルが本著で考察の対にしたのは「思惟規定」そのものであり、彼にとって存在とは人間的感覚や認識においてでなく、思惟規定に関連するものであった。存在(物質)が思惟を産むのでなく、思惟が存在(物質)を産む。ヘーゲル哲学が観念論と呼ばれる所以である。

ヘーゲルは自らの大論理学を「純学」と呼んでいる。それは物質的感覚から解き放たれ純に思惟と言葉のみがある世界であり、人間彼岸にある神を悟性的(固定的)に解釈するのでなく、自らの内にある神の自己意識を認識することである。換言すれば主観的な々が絶対なる客観と統合される世界観である。この世界観は前著の『精神現象学』の到達した「絶対知」、「概念」の地が前提とされている。また大論理学で用いられるのは弁証法である。弁証法とは概念が自らの内に持っている否定的なものによって概念そのものが進展する考えを言う。

まずは予習として以下の項ざっとを通してもらいたい。

精神現象学

弁証法

有論

有論は存在の「質」、次に存在の「量」。最後に質と量が止揚された存在の在り方である「度」の3段階で構成されている。

質(規定性)

有と無

ヘーゲルは「有とはであり、とは有である」と述べる。ここで言う「有」とは精神現象学の結果によって知と対主観(自分)と客観世界)が統合された状態のことである。世界の全ては自分自身と等しい(世界の全ては思惟である)ので、「」以外に何も「有る」と規定できるものはなく「思惟している」というその「虚な有」だけがそこにある。すなわち「有はである」とは「思惟と存在が一致している概念地には、規定という規定性しかない」という意味になる。「規定性」とは存在論における哲学用語で「何か物がアル」というときその存在の条件は、物が「アル」のは「一つ」の「るもの」としてである。したがって物が「存在する何か」として規定されるのは、「有」「るもの」「一」の三つ(これらを概念と言う)を通してであり、それらは物について「〜である」というための根底的条件であり、その意味でこれら三つの概念は「規定性」と呼ばれる。

「有」と「」が同じであり、かつ区別されるという矛盾弁証法的に「成」に統一される。「成」は「今までにかったものが有るようになること(生起)」と「今まで有ったものがくなること(消滅)」の2つの方向性を持っている。この二つの方向によって「有」と「」は初めて異なったモメントとして「価値」を持たされる(モメントとは弁証法における否定的発展の契機のこと)。しかし生起と消滅は別個のものでなく、生起は消滅を含み、消滅は生起を生む。つまり流動の中の同一のものである。例えば「に成ること」は「くなる」と同じ意味である。しかし生起と消滅が同じであるならば「有」と「」の区別は意味であり「成」は成り立たなくなる。こうして「成」の流動性はなくなり「静止した成果」が生まれる。これを「定有」と呼ぶ。

定有

「定有」とは「現に有ること」という意味である。「何かが有ること(存在)」と「それが何で有ること(規定されていること)」が一つである在り方が「質」という存在の在り方であり、その存在者を「定有」と呼ぶ。また「定有」している物は「るもの」と言う。この世の全ては「るもの」であり、ブドウスイカも定有している。しかし「〜がある」と「〜である」が統一された状態で両者を区別するものは色や味ではなく「自分ではない」という「他者」の概念である。また、るものがるものであるのはそれが自己に等しいからである。この自己同等性を「規定」と呼ぶ(この「規定」は上述した「規定性」とは全く別の意味)。自己に等しい(規定)とは「他者ではない」ということである。るものの自身の内にある「他者」がるものの「限界」を形成するため、全てのるものは他者という限界を持っている「有限者」である。

自然界にある全ての有限者はいずれ必ず滅びる。そうなると有限者の内部にあった限界は、有限者の外にあるかのような「制限()」となる。それと共に有限者の規定(自己同等性)は内でなく、有限者の手の届かない彼岸にある憧憬となる。この憧憬を「当為」という。を作り、それを乗り越えた先にまた新たなが生まれ、この動きに終わりはない。これが、質の中に姿を表した「悪無限」である。終わりのない繰り返しこそが定有の姿である。ヘーゲルはこの悪無限し、無限を模索する。彼は有限者の実在性の中でなく、有限者の観念性こそが無限だとした。有限者は無限憧憬しつつも自己に回帰する。無限者は有限者の当為の対として有限なものとされてしまう。しかしこのキリなき動きの全体の中に無限は現れる。有限者も、有限となった無限者もこの全体のモメントでしかない。それらは実在するものではなく観念的なものである。

対自有

質的規定性が観念的なものだとすると、定有という概念はもはや意味を持たず「るもの」と「他者」は区別されなくなる。このような存在の在り方を「対自有」と呼ぶ。対自有とは上述した概念の一つ「一」のことをす。ブドウスイカも「一」でしかなく、両者の間に規定の違いは全くない。全てのものが等しく「一」であり、他者と異なる規定を持たない。つまり「一」の内には何もなく、「一」の内には「」が有る。「一(自分自身)」は「」を通して「一」自身に関係する。「一」の自己関係が「反撥」であり、一方で多くの「一」が互いに引き付け合う「牽引」である。まず「一」が自らを反撥してクローンのように新たなる「一」を生み出す。全ての「一」に区別はないのだから生まれた一は他者でなく「多者」である。そこで全ての「一」はお互いに牽引しあう。反撥しながら牽引する、すなわち「一」でありつつ「多」である(一即多)という矛盾。この矛盾により「有」とその「規定性」が分解されていく。「規定性(〜である)」と「有(〜がある)」が区別されないことが「質」の特徴であったが、ここで規定性の変化が有に変化をもたらさない新たなる存在の在り方が生まれる。これが「量」の領域である。

量(大いさ)

「大いさ」とは間のみならず重さや個数、近代数学(数論)を対とするもので「質」の最後で「一にして多」と矛盾した存在をこの篇で「量」によって捉え直していく。

「物事はどこまでも分割する」という立場を連続性といい、「物事に最小の単位があるとする」立場は分離性を認めることになる。「量」は「連続性」と「分離性」の二つのモメントの統一である。「連続しており、かつ分離している」という矛盾弁証法的に統合する存在者の在り方が量そのものである。例えば50m3教室は連続的であり、そこに入っている30人の生徒は「生徒」という単位に分割されているため分割的である。しかしヘーゲルは連続性の中に分割性があり、分割性の中に連続性があるという。50m3部屋は1mという単位によって数えられており、30人の生徒全員が「勉強する子供」という共通性を持っているため連続的である。このように連続性と分離性の二つのモメントを含むものが「量」であり、その存在を「分量」と呼ぶ。

分量

「分量」の章は「数」と「外延量と内包量」と「量の無限」から構成される。本来「量」というのは、無限に他の量に繋がっているものであるが、50m3教室は49m3でも51m3でもない大いさの標であり他を排斥している。つまり連続性と分離性の両方を含むことによって教室は具体的な「分量」を持てるのである。

分離量を数える時に私たちは自然数を使う(分数や小数は連続的なので除外される)。「数」は、それを担う「有」に束縛されないという量」の性格を最もよく表している。3個のリンゴと3個のナシは両者とも質は異なっても数としては全く同じ3である。ヘーゲルはこのことを「数は全に規定されている分量である」と表現している。「分量」がその周縁に限界を迎えるのに対して「数」は3個のリンゴはどれも「同じ一」であるのでいずれも3の限界(3つ)になりうる。「同じ一」とは「単位」の意で、「数」は「単位」と「単位からなる集まり(集合数)」の二つのモメントから成り立っている。例えば4×4×4=4×3であり、ここでの4が単位、3が集合数となる。

外延量と内包量

次に連続量について考える。連続量は外延量と内包量に分けられる。外延量は大きさや重さを表すもので、加法と減法が成り立つ。内包量は強さを表すもので加法と減法は成立しない。前者の例がの量であり、20ℓのに30ℓのを足すと50ℓのになる。後者温度であり20℃の水30℃の水をしても50℃の水にはらない。このように外延量と内包量は性質が異なるが、ヘーゲルは両者を「分量が持っている同じ規定性」であるとし、その違いは外延量は集合数を内部に持ち、内包量は外部に持っていると説明する。例えば、お風呂の心地よさ(質的感覚)を表現する数値は内包量であるが、その湯船の暖さを温度計で測った数値は外延量である。つまりお風呂の温度内包量でありながら同時に外延量でもある。この同一性が明らかになると、量の内に「質的なあるもの」、つまり「量の無限」が現れる。

量の無限

ここからされるのは止揚された質を回復し、量と質を統合することである。量には質という「存在する限界」がある。500gのスイカ510gのスイカは量の差にかかわらず同じくスイカである。スイカはどれだけ量があってもスイカである。大いさの増減は限りがなく、量の悪無限が出てくる。ここでまた無限を探さなければいけなくなった。そのは分離性と連続性を統合させることにあるのだが、そのためにヘーゲルは「二つの分量同士の(分数)」と「二つの分量の変化の微分係数)」を摘する。この二つが量における無限を表している。質の無限は対自有、一であり観念的なものであったのに対して、量の無限実在する。例えば10÷3=0.3333…の式では無限小数が続くが、それでもこの量は観念的でなく実在している。そこで分量のをつけ10/3と表現することで量の無限が表現できる。これを同様に微分法を使って「極小の数値の変化」を表現すれば量の無限がそこに現れる。

量的比例(関数)

二つの量のによって表した量の無限は「量的例」、現代の言葉でいえば関数で確認できる。内包量の一つに速度がある。速度は「距離÷時間=速度」で表現されるがこれはまだ量的例とはいえない。速度距離や時間と同じくそれ自身一つの分量にすぎないからだ。そこで速度を一定にする。距離=x、時間=y、速度定数kとするとx/y=kで距離と時間は正例する。また今度は距離を一定にし、距離=定数k、時間=y、速度=zとすると、yz=kであり、時間と速度は反例する。ヘーゲルは反例の内に、量的性格が次第に止揚していく様子、すなわち存在の発展を見ている。時間yが二倍になれば速度zは半分になる。時間と速度は違いに否定的に関係し合うことで、その量的性格を相殺していると考えられる。しかし最も顕著に分離性と連続性が統合されているのは、「単位(分離性)」と「集合数(連続性)」が一致する冪例(べき例、乗数を含む関数)である。こうして量は止揚され、量の内に質的なもの(分数、微分、冪)が見出されると、質を持った分量。実在する事物の規定性が現れてくる。これを「度」という。

「度」とは基準や尺度という意味。「量」において運動考察されたが、それはあくまで純数学世界の話である。そこで度においては物理学化学など実在するものの運動題にする。ヘーゲルはこれを「自然数学」と名付けた。

固有の量

「固有」とはドイツ語で「種」に由来する語であり「固有の量」とは種に固有な基準を持つ量ということである。事物はそれぞれの種(質)にふさわしい量(固有の量)を持っており、そのことを「物は度を持つ」という。生物のみならず国家も度を持ち、度を越えると物は破滅する。また標準事物の度が、他の事物を量る基準となることを「固有化」と呼ぶ。例えば足の固有な量はフィートという単位となる。このように一つの分量に度を見るのでなく二つの分量のとして度を表す固有化は「度」の第二の在り方となる。他にも熱(物質の単位質量を1℃上げるのに必要な熱量)が「固有化」の例として挙げられる。度とは、存在の質を量によって表現したものだが、逆に量の内にその限界(質的なもの)を見い出すことでもある。先に例に上げた冪には量の自己関係(自己止揚)が現れ、そこに質的なものが見つけられる。ヘーゲルはここで冪規定の発展を見いだすために、3つの物理法則を提示する。これらの運動法則は時間(t)と空(s)という質的に異なる二つの量から形成され、度は法則の係数aとして現れる。

  1. 速度運動法則 s/t(s=at)
  2. ガリレオ自由落下(等加速度運動)の法則 s=at2
  3. ケプラー運動法則 s3=a2

第一の等速度運動には冪の規定は含まれていない。単なる一次の分量同士の正例関係にすぎず、物体の機械的な運動を表現するだけだ。第二の自由落下法則間量が時間量の自乗に例するため冪規定が含まれてくる。しかし間量は一次の分量であり、経験的な量を表すものにすぎないからこの法則無限進行に陥ってしまう。つまり「自由」落下といいながら実際は重力を受け、物体の自発的な運動とは言えない。最後の運動には冪例が全に現れている。地球重力を受けない自由運動をしている。よって体の物体は、度の内に見られる自立した対自有と言える。

実在している度

体のように他からを受けず、それ自身が度を持って自由運動をする物体を「独立体」と呼ぶ。ここからは理論上の運動法則でなく、実在する独立体の度(実在している度)を問題にする。地球引力を受けないことが独立体の本質であるから、独立体とは自らが引力を持つものだと言える。独立体がそれ自身有している度を「重」と呼び、二つの独立体の度のを「中和」という。先に物理学の話をしたがここからは質的変化を扱う化学テーマとなる。しかし質的変化と言っても冒頭に述べた質論のようにるものが他のものへ移ることではなく、変化しない恒常的要素の組成の交代による質的変化を対とする。

独立している度の比

ヘーゲルの考える独立体とは原子や分子のような小さすぎるものでなく「単体」であると想像できる。独立体の持つ度のはまず第一に一つの独立体における「重」であり、第二に二つの独立体の「中和」において考えられる。ヘーゲル重を重量/体積で表現しており、これは密度と同じである。重はある物質の密度と標準物質の密度のであるので、ディメンジョン(大きさ)を持たない数である。これは現代でいう原子量であると考えられる。

次に、ある独立体が別の独立体と結合(化学的中和、親和性)する時のとして「実在の度」は現れる。例えば基は一定の割合で中和するが、その割合が物質の持つ独立した「度」である。そして中和する量のことを「当量」という。ある独立体が自分のし質的定数(当量、度)を表現するのは、それと異なる独立体の一定のにおいてである。また、二つの物質が結合しているとき、一方の物質により親和性の高い物質が加えられると、第三の物資は一方を追い出して新たな結合を生む。これは選択的(排除的)親和性と呼ばれるものだが、化学に限らず男女三角関係にも見られることだろう。ここで強調されるのは親和性の強弱によって物質の質が変わること。つまり量的変化が質的変化を生むことである。

度の比からなる結節線

ここでヘーゲルは様々な独立体同士の結合を一つの直線上に配列して考察を始める。化合物は混合の一定のにおいて生ずるが、この一定のを「結節」と呼ぶ。それを連続する直線(結節線)上に記してその混合の推移を見るのである。彼は物質の本性は原子のような分離性にあるのみならず連続性にもあると考えていたので、連続する線分を仮定してその漸進的変化の中である結節点で質的変化が起きると想定した。分かりやすいのはであろう。温度を漸増させていくと一定のポイントで気体へと変化していく。物質が変化の中で突然に中断され他の状態が出現することを「飛躍」という。

度外れ

質における変化は発生と消滅。量における変化は増加と減少であったが、ここで飛躍(度の変化)という新しい変化の概念が生まれた。飛躍において、量の変化が新たな質を生み、生まれた質はまた量の変化に繰り込まれる。質と量、二つの領域そのものの間の変化を「交換」と言う。交換において「度の悪無限」が現れる。質の悪無限無限者への憧憬であり、量の悪無限は0.3333…のような無限小数であったが、度の悪無限は質と量の限りない交換のことである。氷は結節線の一定のところでになり、さらに進むと蒸気となる。しかしこの交換は止まることがなく、度を表現していた結節線自体が度を欠いて(度外れ)しまう。この度外れという度の悪無限を解消するために、質と量が互いに止揚する必要がある。量と質が統合され、量と質の区別が意味を持たなくなる。よって質の変化も量の変化も、存在に何らを与えないことが分かった。質と量の変化は「有」と言われた存在の「状態」の変化であるにすぎないのである。状態の変化にかかわらず持続して存在することを「措定されている」と言う。

本質の生成

質は「成る」、量は「自分を外にし示す」、そして度は「(帰るべき自己を)措定する」。こうして有の規定性はただモメントとしてのみ存在すると明らかになった。この規定のカオス状の状態を支えている、存在者の新たな基体を「差別」という。差別は「質量」や「事柄」とも呼ばれ、「自分の内に留まる否定的で絶対的な統一」を意味する。この統一が第二巻のテーマである「本質」である。本質は自己に否定的に関係している、つまり自己を反撥するものである。その本質の反撥によって、今までの有とは異なった新しい存在者が生まれる。第二巻『本質論』で扱われるのは単純に有るものではなく、本質が措定したものである。

関連項目


参考文献

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掲示板

  • 1 ななしのよっしん

    2023/09/21(木) 22:39:28 ID: Pbv5i2dFHT

    > 「有はである」とは「思惟と存在が一致している概念地には、規定という規定性しかない」という意味になる。
    すると「は有である」は「規定という規定性をつきつめると、思惟と存在が一致するしかない」という意味にでもなるんですかね。
    そもそ規定性に規定が含まれるとするのが納得できません。後述の規定性の説明には規定を3つの概念によってどのように特徴づけているのかの説明が欠けているからです。

    全体的に問題設定自体が虚偽のように思えるんですよね。矛盾を認めて爆発を認めるような感覚になります。

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  • 2 ななしのよっしん

    2023/09/21(木) 22:51:51 ID: Pbv5i2dFHT

    もし規定を規定性を構成する3つの概念に自体によって特徴づけられないならば、あるいはそれらの単に否定的な側面として特徴づけられるならば、「規定という規定性がある」などと表現することは誤りでしょう。

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最終更新:2025/01/14(火) 02:00

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