帝瑞丸とは、1927年12月10日に就役した北ドイツロイド社のフランケン級貨客船モーセルを、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が徴用したものである。1945年4月18日に関門海峡西方で触雷大破して座礁放棄された。
1927年、北ドイツロイド社は東アジア・オーストラリア航路に就役させる高速貨物船17隻を新たに発注。このうち7番船がモーセル(Mosel)となる。いずれも川の名前から取られており、4本マストを備えた典型的な船型ではあるものの、姉妹船同士でも細部に小さな差異が見られ、最初に就役したフランケンとシュヴァーベンに至っては2本マストであった。
極東航路に就いていたモーセルであったが、1939年9月3日の第二次世界大戦をタイで迎え、帰国不能となったため、長らく中立国タイに身を寄せる羽目になる。1941年9月22日に同盟国日本の神戸へ移動。日独間の交渉の末、1942年11月2日にドイツ海軍所属・帝国船舶管理下となって帝瑞丸に改称。輸送任務に励む。1945年3月13日と19日、大阪港にてB-29やコルセアを相手に対空戦闘を実施したのち、4月18日、大連から神戸へ向かっている道中で磁気機雷に触れて大破、吉見湾で擱座放棄される。
排水量8624トン、全長160.57m、最大幅19.24m、載荷重量1万1850トン、最大速力14ノット。帝瑞丸へ改名した後は自衛用兵装として8cm砲1門、九六式25mm連装機銃2基、爆雷4個を装備。
1927年12月10日、AGヴェーザー社のブレーメン造船所で竣工。北ドイツロイド社に正式納入された後は欧州=オーストラリア・ニュージーランド方面を往来する極東航路に就役した。
1933年8月6日、ラス・アル・アラ東方8海里沖のアデン湾にて座礁事故を起こしてしまうも、貨物の一部を海へと投げ捨てて船体を軽くし、サルベージ船の協力を得て何とか離礁に成功。幸い船体には何ら損傷が無かった。
1939年8月2日、ブレーメンに向かうべく大連を出港、8月19日にタイランド湾で米の積み込み作業を始めた。しかし9月3日、ポーランド侵攻を機に英仏連合国がドイツに対して宣戦布告を行い第二次世界大戦が勃発、ドイツ本国までの道のりを連合軍の勢力圏で閉ざされたモーセルは帰国困難になってしまう。無理に突破を図れば強大なイギリス海軍に拿捕されるのは明らか。図らずも中立国タイのシーチャン島で待機を強いられた。
タイの領土に閉じ込められてから約2年が経過した1941年7月22日、ドイツと同盟関係にある日本へ向かうためシーチャン島を出発。長らく係留されていたからか様々な不調を抱えていて鈍足であった。
航行中、モーセルは帝国船舶株式会社の管理下に置かれる。支那事変や第二次世界大戦勃発に伴う船舶需要増大により、商船の船腹不足が問題化した日本政府は、国内の大手海運会社9社に要請して資本金1000万円を均等出資させ、外国船の取得を目的とした帝国船舶を設立。管理下に入った船舶には「帝」を付ける習わしがあるため、モーセルには帝瑞丸の名称を与えられ、大同海運株式会社所属の汽船となる。
9月9日、帝瑞丸が領海を安全に通過できるよう、大日本帝國海軍はモーセルに「JWKQ」の呼び出し符号を与え、帝瑞丸無線電信取扱所を設置。そして9月22日に神戸へと入港した。
大東亜戦争開戦後の12月22日に横浜へ回航され、三菱重工の第1船渠に入渠して5日間の整備を受ける。しかし帝瑞丸/モーセルの所有権が日独間で明確ではない事から、徴用したは良いものの輸送任務には投入出来ず、長らく日本国内に留め置かれた。
1942年8月29日から9月4日にかけて再び第1船渠で修理。9月18日に呼び出し符合を「JGCR」に、係留地を東京へ変更し、10月21日には海軍警戒隊4名が帝瑞丸に乗船した。
日独間で交渉を行った結果、11月2日に帝瑞丸はドイツ政府が所有する事になり、駐日海軍武官パウル・ヴェネッガー中将とオスタジエン提督に処遇を一任、彼らの指示で所属をドイツ海軍にした上で帝国船舶の管理下へ置く事が決定した。以降は6ヶ月おきに裸請負傭船契約を更新していく取り決めも成されている。このような経緯から乗組員はドイツ人で占められた。実戦投入に備えて自衛用に8cm砲1門、九六式25mm連装機銃2基、爆雷4個を装備。
1943年4月27日に第一次海軍指定船となる。7月4日、機雷敷設艇成生と山鶴丸が護衛する第8705A船団に所属して串本を出港。だが由良港へ向かっている途上で機関が故障してしまったため船団から離脱した。
10月12日午前10時に三池港を出発し、10月15日午前10時に台湾北東部基隆へ入港、10月21日、基隆を出港して門司へと向かった。11月3日から28日にかけて名古屋港外にて第二十名港丸の協力で帝瑞丸の推進機を引き上げる。
1944年3月20日午前6時、基隆を単独出発して六連泊地に向かう。しかしそこでは災難が待ち受けていた。
道中の3月22日13時50分、悪天候下の奄美大島沖にて、護衛無しで航行する帝瑞丸を米潜水艦グロウラーが発見し、3000トン級の貨物船と推定。14時40分に帝瑞丸に向けて魚雷4本を発射し、1本命中を観測したが、実のところ帝瑞丸は全て回避に成功していて無傷だった。間もなく日本の新型哨戒艇2隻が現れて攻撃してきたためグロウラーは退散。敵潜の襲撃を掻い潜った帝瑞丸は4月25日16時に無事三池港へ帰投した。
6月1日に大阪を出港、8日に大連へと寄港して鉄1942トンを揚陸するとともに特産物1万1673トンを積載し、18日に大連発、6月21日、神戸へ入港して特産物を揚陸する。
6月30日から7月22日にかけて日立造船桜島工場に入渠して整備を受けた後、大阪・大連間を往復して鉱石類輸送に従事。優れた載貨重量を持つ帝瑞丸は一度に1万トン以上の鉱石を輸送する事が可能だったのだ。11月20日より再び桜島工場で入渠整備。
1945年3月13日13時15分、大阪港13番浮標にて荷揚げ待機中、偵察に来たと思われるB-29と交戦し、25mm対空機銃弾1687発を発射。帝瑞丸は軽度の損傷を負った。同日23時57分より第314航空団所属の43機が大阪市上空に飛来、続いて231機のB-29が殺到し、夜間低空爆撃で大阪市の中心街を焼き払っていった(大阪大空襲)。
3月19日午前7時30分、呉軍港空襲に呼応して大阪港に敵艦上機が襲来。港外にいた帝瑞丸はF4Uコルセア4機と交戦して25mm機銃弾41発を発射した。
1945年4月18日15時35分、大豆粕345トンを積載して関門海峡西方の山口県吉見沖を航行中、B-29が投下した機雷が4番と5番船倉の間で爆発して大破。機関室とボイラー室に浸水被害が発生、ビルジポンプによる排水も間に合わないため、やむなく加茂島の小さな湾へ退避する。幸い被雷による死傷者は出なかった。5月7日、2HE型戦時標準船伊奈浦丸が横付けして大豆粕の移載作業を開始。5月12日にドイツ人乗組員が退船して帝瑞丸は放棄される(その後浸水により着底した模様)。このままの状態で8月15日の終戦を迎えた。
戦後の1945年12月、連合軍が擱座中の帝瑞丸を調査したところ、救助の可能性は不明としつつもとりあえずSCAJAP番号T-045を交付。書類の上では生存判定を受けていたようだ。ところが結局のところ再利用はされなかったという。残骸は長らく放置されていたようで、1947年10月4日に国土地理院が空撮した吉見湾の写真に帝瑞丸が写り込んでいる。
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最終更新:2025/12/22(月) 10:00
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