戦時標準船とは、
本稿では2について解説する。
昭和十七年四月の「改四線表」より建造が開始された。その後、戦局の悪化により四期に渡り造船計画が立てられ、建造された船舶は終戦まで日本と海外の占領地との補給を支えた。
平時において造船は通常、民間資本による船主と造船会社との自由契約により行わる。しかし、戦時となれば国(海軍)がこれら民間船を傭船または徴用し、戦略物資や人員の輸送に用いることになる。当然ながら性能は高性能であることに越したことはないが、実際に総力戦となれば船舶個々の性能よりも竣工にいたるまでの期間、鋼材の節約、運用する船員の効率的運用が重視され、平時設計では戦時増産体制にそぐわない冗長な設計が問題となる。
日本においては民間において、戦前の昭和十四年より船舶改善協会が推奨する標準船(平時標準船)が造船されていたが、戦時を想定した船舶ではなく大量生産には向いていなかった。
海軍は来る対米戦においては短期決戦を志向しており、第一次世界大戦において英独間で行われていた、長期戦を前提とする通商破壊作戦や護衛戦と損害を補うための商船増産にはさして興味を示していなかった。本格的に造船統制の必要性を感じ始めたのは開戦一か月前の昭和十六年十一月五日に策定された「対英米蘭戦争帝国海軍作戦計画」からであり、しかも開戦後の船舶損害数を年100万トンとし、既存船腹630万トンと新規造船予定数年50万トンを加えれば対応できるとし、戦時統制を軽視していた。
後世から見れば既にこの時点で遅きに失した感がある造船計画であったが、開戦準備と緒戦の攻勢作戦に海軍首脳部は謀殺され、第一次計画である「改四線表」が始動したのは開戦からさらに四カ月たった昭和十七年四月にまでずれ込んだ。
昭和十七年前半までは日本側の優勢により船舶の被害は想定内に収まっていたため、本計画においては「戦後に海運業界のお荷物となる劣悪船の建造は避ける」と言う基本方針が取られていた。
この「改四線表」において造船された商船を「第一次戦時標準船型」と呼び、前述の平時標準船を基本として若干の省略化が加えられて建造が進められた。具体的には工事の簡易化・材料規格の統一・補機部品の統一が行われ、従来船より19%ほどの鋼材節約に成功。しかし、性能上の変化はほとんどなく、優秀とは言えたが戦時増産には難のある設計であった。実際に建造数も当初計画の八割ほどにとどまっている。
昭和十七年後半のガダルカナル戦により、わずか二カ月で年間建造量の八割を超える船舶を喪失。海軍はおろか陸軍から政府高官までを驚倒させる事態となり、限られた船腹を巡り陸軍省と参謀本部との争奪戦にまで発展。軍務局長と作戦部長が殴り合いを演じる一幕まで起きた。また、海軍もタンカーの不足により機動部隊の運用に支障をきたし、作戦を徐々に拘束しはじめて行った。
ことここに至り、昭和十八年一月ようやく従来の設計方針を根本的に改めた「改五線表」を始動。同年七月より「第二次戦時標準船型」とし造船が始まった。この「第二次戦時標準船型」では「戦後」などと言った余裕のある概念はもはや想定されなくなり、「機関一年・船体三年」「とにかく浮いて動く船」と言う極端な省略設計が取られた。具体的には
これらによって、必要鋼材は従来船の38%にまで節約出来たが、性能(と言うか安全性・生存性)は無残なものとなった。
特に二重底の廃止は抗堪性の極端な低下となって表れ、機雷・魚雷・爆弾の直撃はおろか至近弾や機銃掃射でも即沈没につながった。
機関は蒸気レシプロなら良い方であり、中には漁船や河川用渡船に使われる焼玉エンジンを搭載した船(いわゆるポンポン船)まで存在する有様であった。速度も商用船舶としてすら不足気味の7ノットから8ノットに低下。この焼玉エンジン船は当然ながら信頼性に欠け、故障が続発し船団運行の足を引っ張り護衛戦にも悪影響を及ぼした。
また、出力も全ての機関において非力で、潮流に巻き込まれれば座礁し二重底もなく船底の鋼材は紙切れ同然のためそのまま転覆と言う最悪コンボも発生。そもそも、機雷被害と区別がつかないだけで、何もせずとも船体の疲労破断で沈んだ船もあったものと推測される。
それでも800隻ほどが竣工し年次生産量は100万トンに達した。第一次戦時標準船型がほとんど戦前船舶と変わらず量産に失敗したこと、第三次以降はほぼ少数生産で終わったため、一般に戦標船と言うとこの第二次戦時標準船型を指すことが多い。
なお、これらの設計は国内法である船舶安全法に違反していたが、非常時のために無視されていた。
機関の増産体制がようやく整ったことを受け、昭和十八年十一月に「第三次戦時標準船型」が制定され、昭和十九年十月より起工。これが海軍の本命であり、速力の12ノットから16ノットに向上。高速輸送船として期待されたが、既に日本近海の航空・海上優勢すらままならなくなった状態ではその優足も焼け石に水であった。昭和二十年からは空襲による被害や資材そのものの絶対的な不足も始まり、数隻足らずの生産にとどまっている。
航空・海上優勢の喪失により、第二次戦時標準船型船はもとより戦前からの優秀船舶や第三次戦時標準船型であっても、航海そのものが一か八かの賭けとなっていた。そこで護衛はあきらめ駆逐艦用の機関を積み込み、19ノットの速力で敵勢力海域を強硬突破する船が求められた。これが「第四次戦時標準船型」であったが、このようなもはや「艦」と言うべき船が短期間で製造できるはずもなく、竣工を迎えることもなく終戦を迎えた。
開戦時に630万トンあった日本の船腹は終戦時には31万トンにまで激減。このうち四分の三が戦時標準船であった。しかし、あまりにの脆弱ぶりに、一部の船舶が引き揚げ事業に従事したほかは商用使用もままならないまま1950年までに解体。1960年代までには姿を消した。
保存・記念船はないが、この計画造船の影響で作られたコンクリート船・武智丸が広島県呉市安浦町に防波堤に転用され、辛うじて当時の造船政策を今に伝えている。また、兵庫県神戸市には「戦没した船と船員の資料館」があり、戦標船のみでなく全国規模で唯一の戦没船員慰霊施設となっている。
泥縄式の増産計画と極端に二転三転(四転)した設計、さらに拙い護衛戦術により船員の犠牲者は六万人・死亡率は46%にも達した。これは陸海軍の死亡率を圧倒的に上回る。このため日本の戦時標準船の評価は他国、特にアメリカと比べて非常に低い。
一応、フォローするならカウンターパートであるリバティ船も、冶金に対する知見不足や船体にかかる応力の軽視、非熟練工による溶接作業などにより2700隻のうち実に十分の一に当たる200隻を事故で喪失しており、性能も低出力で旧型の蒸気レシプロを積んだため11ノットと低性能であった。粗製乱造は日本だけの問題ではなかったのである。また、戦時中からこれらの問題は指摘されていたが、戦争遂行が優先され人命も(日本とはくらぶるべくもないが)軽視はされていた。抜本的な改善がなされるのは戦争終結後、リバティ船の解傭・払下げにより民間利用が行われてからである。
ただし、護衛戦・補給戦に勝利し最終勝利に大きく貢献したこと、また戦後の船舶建造や設計にも貢献したためリバティ船はタコマ橋崩落やアポロ13と並んでアメリカの偉大な失敗に数えられることもある。
総じて言うと、性能の問題(ももちろん大きかったが)よりも海軍や国家の政策の不見識に振り回され、また悪名高い日本の海上護衛戦の直接的な被害者像が浮かび上がるだろう。
唯一の評価点として、リバティ船と同様、その効率的な造船体制や設計および技術、技術者や造船工が戦後の日本の造船界に生かされ、長く続いた黄金期を大いに支えたことである。日本製の船舶や技術を見た時、一度は海に沈んだ六万人の船員に思いを馳せてみるのもいかがであろうか。
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最終更新:2024/04/25(木) 20:00
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