御霊会 単語

ゴリョウエ

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御霊会(ごりょうえ)とは、霊を鎮めるために行う祭である。

概要

平安時代、志半ばで死んだ人が霊となり、疫病や災を引き起こすと信じられていた。それを鎮めるために行ったのが御霊会である。

日本で最初の御霊会は、平安京で863年に行われた。この年、咳逆病(しはぶきやみ)、つまり現在インフルエンザが都で流行し、多くの人々が倒れた。これを下記の霊の仕業と考え、仏教の経典を読む、陰陽や修験儀式を行うなどして霊を鎮める御霊会が開かれた。

以下の6つの藤原吉子を含む)がられた。

王(さわらしんのう)
桓武天皇皇太子だった。藤原種継暗殺事件にかかわったとされ、訓寺、次いで淡路に流刑となり、絶食の末に死亡した。
伊予
桓武天皇の第3皇子。藤原宗成が謀反の際、「伊予王が首謀者である」と述べたため、大和川原寺に閉され、藤原吉子とともに自殺した。
逸勢(たちばなのはやなり)
遣唐使を務め、老齢になり余生をゆっくりと過ごしていたところ、謀反の疑いをかけられ捕縛された。で打たれる拷問ののち、姓(身分)を「非人」にめられ伊豆へ流刑となった。護送途中に、遠江築(静岡県浜松市三ヶ日町)で死去した。
文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
部下から「新羅人と結託して謀反を起こそうとしている」という告発をされ、自宅の武器が押収されたうえで伊豆へ流刑となった。その後は明らかでないが、おそらく伊豆で死去したと思われる。
観察使
この人物については藤原仲成藤原広嗣のどちらかをすと考えられている。藤原仲成は上皇のもとで嵯峨天皇への挙兵を計画したが、嵯峨天皇により捕縛され、射殺された。藤原広嗣は大宰府から朝廷政治批判し、九州で挙兵したが、肥前現在佐賀県唐津市)で首をられた。

この御霊会をきっかけとして、に「上御霊神社」「下御霊神社」が創された。その後もの様々な場所で御霊会が開かれた。

869年の疫病の流行時にはに当時のの数を示す66本のを立て、牛頭王(園精舎の守護)をり鎮めた。これが祇園祭園御霊会)の由来とされている。

現在では「御霊会」という名称で開かれることは少ないが、上記の祇園祭今宮神社の「今宮祭」など、名前や形を変えて京都の地域の祭りとして残っていることがある。

一方、2020年コロナ禍の際には、園御霊会明治分離以来に開催された。八坂神社の祭を呼び、僧侶般若心経などを読み巫女神楽を奉納するという神仏習合の形で行われた。

また、北野天満宮北野御霊会応仁の乱以来550年ぶりに開催された。こちらも神仏習合の形で行っており、北野天満宮に加えて延暦寺も協している。

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