林海峯(りん かいほう)とは、日本の囲碁棋士である。
天元タイトル5連覇の功績により名誉天元を名乗る。
日本経済新聞の「私の履歴書」に自身のエッセイが載っている。
これは「闘将・林海峰」として書籍化した。
以下、ネットで収集した情報とその本から概要をまとめる。
中国・上海の出身であるが、戦争の混乱により台湾に移る。
その後、故郷上海の地を踏むのは43年後になる。
囲碁好きな父の影響で碁を覚え、知らぬ間に上達。
その腕は台湾の少年少女囲碁大会で優勝するまでになった。
そんな折、たまたま台湾を訪れていた呉清源に6子で打つ機会に恵まれる。
結果は一目負けであったが、才能を評価される。
父は大いに喜び、来日を許す。
京都の藤田梧郎門下に預けられる。
後に「囲碁の環境なら東京」という事で東京の知り合いに預けられるが、
べらぼうに遊びまくるので京都に戻される。
12歳で入段。めきめきと腕をあげる。
当時最強の棋士であった坂田栄男・名人本因坊から名人位を奪取。
「20代のタイトル獲得などありえない」
「たのむから(第五局は地元関西で行われるから)4連敗だけは避けてくれ」
などと言われていた風評を跳ね除け、
見事に名人位を獲得した。当時の最年少名人位である。
(石田の22歳の記録に塗り替えられる。現在は井山が記録更新)
後に名誉天元を許されるが、
元々、氏は名人リーグが居城であった。
ライバルの一人は石田芳夫。
彼に名人位を奪われるだけでなく、対石田戦に限っては公式戦で9連敗という記録も残っている。
また、同じ時期に活躍した大竹英雄先生も宿敵。
二人はセットで竹林と呼ばれ、囲碁界を大いに盛り上げた。
大竹先生の場合は「天敵というより、お互いを高めあっていく」人として認め合っている。
ただ、二人の直接対決は少ない。
現在も第一線で活躍すると共に、台湾の囲碁発展や、人材発掘、
さらに「海峰棋院」の設立(これは名前を貸しているだけで、林文伯という別の事業家が主)など
日台間の囲碁文化の架け橋となっている。
弟子はおなじみ張栩9段と林子淵7段をはじめ、
氏により来日したプロはニコニコの本因坊中継に出演した林漢傑7段など。
(彼は短期間の預かりだったらしい)
オレの嫁 謝依旻6段も研究会に顔を出しているようだ。
2012年現在、新しい棋書を出版したり、
週刊碁などの企画対局(vs姚 智騰 初段)をしたりと、
相変わらず精力的に活動している。
その昔は粘り強い二枚腰の棋風と言われ、
この碁で名人位を獲得した。
現在は棋風が変化し、実利を重視しつつも好戦的な碁を打つと言われるが、
元々自身の棋風は好戦的であると著書で語っている。
林という姓は多い。
日本で言うと鈴木さんとか佐藤さんみたいなもん。
彼の兄弟には皆「海」の字が含まれている。
林家では代によって決められた字を名前に共通して入れる事が慣例だったようだが、
詳しく聞く前に父が他界してしまった。
それにより、この風習は海峰先生の代で途切れてしまった。
メディアによって峯の字に変動が見られる。
林海峰 林海峯 共によく使われる。
日本棋院では峯の字を採用しているので、
この記事でもそれにならう。
発音はリン・チャンナウ!である。嘘である。
正しくはリン ハイフォン。
布石編。
中国流などのシステム布石が流行ですが、
こちらの布石本は更に基礎となる事が書いてあります。名著。
3連星の本は、蘇耀国先生が前年に出した本と比べてわかりやすい。
蘇先生の本は難解な部分まで触れられているので参考になる。
どちらを選ぶかは中身を見て決めましょう。
林海峰・詰碁3部作と死活の教科書
「基礎力のつく死活」は、日本棋院「早分かり死活小事典」とセットで買われる事を個人的におススメします。
ひと目シリーズの次をお探しの方は是非。超が付くほど良書です。
打ち碁集
本記事はこの書籍とネットを元に書いた
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最終更新:2025/12/10(水) 14:00
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