郭李建夫(クォリー・チェンフー、和名:かくり たてお)とは、元プロ野球選手である。
| OB | |
|---|---|
| 郭李建夫 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 桃園市平鎮区 |
| 生年月日 | 1969年3月24日 |
| 身長 体重 |
185cm 95kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1993年 |
| 引退 | 2003年 |
| 経歴 | |
選手歴
監督・コーチ歴
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| プロ野球選手テンプレート | |
19歳頃から国際舞台で活躍を見せており、1992年にはバルセロナオリンピックの代表に選ばれ、日本戦で好投し勝利投手となるなど台湾の銀メダル獲得に大きく貢献。その活躍から、NPB数球団やメジャーリーグの球団も獲得に動いていたが、親日家である父の勧めや、オリンピック以前から目をかけ続けていた阪神タイガースに縁を感じ、1993年に同球団に入団。
入団初年度の1993年、春のキャンプ時点で首脳陣から高く評価されていたが、チームには、ジム・パチョレックとトーマス・オマリーの二人がおり、当時の外国人枠が二人であったことから、誰か一人を外さざるを得ないという事態に陥り、時事問題と三人の頭文字をかけて『虎のPKO問題』と呼ばれた。結局開幕一軍には実績のある、パチョレックとオマリーが選ばれ、郭李は二軍スタートとなった。ただ、開幕後はパチョレックがスランプに陥ってしまったことから5月下旬に一軍昇格。主に中継ぎ投手として起用され、5勝4敗2セーブ、防御率3.68とまずまずの成績を残した。
1994年、低迷するチームの中で、中継ぎエースとしてフル回転。49試合に登板して7勝5敗2セーブ、防御率3.14と安定感が光った。
1995年、先発ローテーションの一角として起用され、2試合で完封勝利を挙げるなど、先発投手の適正を見せたが、打線の援護に恵まれず、5勝12敗、防御率3.14と大きく負け越してしまった。
1996年、先発投手として開幕を迎えたが、野手に足を引っ張られることも多く、勝ち星を伸ばせない状態が続いていた。シーズン途中に、リリーフ陣の薄さが露呈したこともあり、抑え投手に転向。8勝9敗15セーブ、防御率3.62と試合を締める役割をしっかりとこなした。
1997年以降は勤続疲労や故障により低迷。2シーズンで16登板に終わるなど、不完全燃焼に終わった。1998年シーズン終了後、阪神を退団。母国に戻り、中信ホエールズに入団が決まった。
中信でも先発・リリーフ双方で活躍。初年度の1999年には15勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。2001年からはリリーフに回り、2002年には16セーブを挙げている。
2003年、31試合に登板して、9勝6敗8セーブ、防御率3.05という成績を残したが、同年限りで現役を引退。
球速表示以上に威力のある直球と、落差の大きいフォークボールを武器に活躍した右腕。器用さとタフさを兼ね備え、先発・リリーフ双方で活躍した。
1993年にはフレッシュオールスターに出場しているが、打球を股間に受け負傷している。なお、よりにもよって全国放送されていた試合での出来事であった。
入団時の契約には、日本人の新人と同じような扱いで、年俸は低く抑えられるが成績不振でもしばらくは解雇されない、という特殊な条項が盛り込まれていたという。
同僚であった中込伸とは体型だけでなく顔も似ており、非常に仲が良かった。
| 通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB:6年 | 167 | 4 | 3 | 27 | 31 | 19 | --- | .466 | 375.0 | 194 | 299 | 164 | 146 | 3.50 |
| CPBL:5年 | 134 | 2 | 0 | 38 | 25 | 37 | 0 | .603 | 459.2 | 184 | 415 | 189 | 137 | 2.68 |
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
最終更新:2025/12/05(金) 19:00
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