親日とは日本に好意的を持つ感情もしくはそのような状態である。対義語は反日。
親日と言ってもその由来は多岐にわたる。たとえば前近代、もしくは近世から続く日本との交易の歴史や、かつて戦争をしたこともある国が長い歴史を経て敵対関係が融和して友好的になるということもある。それらの国では既に忘れ去られた歴史に過ぎなかったのが、歴史研究などにおいて日本との付き合いや関係が掘り起こされて、日本との関係が新たに出来上がるというものもあり、いずれにせよ何らかの国家同士の外交関係が現在まで続いていることが関係している。
もう一つの例がメディアを通じて国家間ではなく民間で日本に親しみを持つという親日である。長い歴史においては国家と国家を行き来するのには長い時間と費用が掛かる。現在のように鉄道や自動車、飛行機もなかった時代は現在と比べれば途方もないほどの時間と労力が必要で、旅は一生を左右する命がけであった。そのため国家が全面的に受け持って名も知らぬ国に使者を送るということはしなかった。そのため民間人が何らかの理由で日本にやってきて日本と縁を持ち、そこから日本と何らかの関係を築いてから国家間で関係を持ち、親日になっていくという形である。この場合は何らかの物品や固有の無形文化が関係しており、それらが日本と相手国それぞれに紹介されて、お互いの国同士が相手国への親しみとあこがれを持つ。
いずれにせよ、日本にしても相手の国にしても、親日というものは元もとは一方通行のものであり、その一方通行な思いが日本と相手国双方でかみ合えば国家間を通じての友好へと進展し、行き違えば単なる親日に留まる。つまり、日本人の側にしてみれば親日とは一方的な思い込みに過ぎないのである。
日本人に実際に触れた上での親日感情というものもある。特に日本では諸外国と違い義理や人情を重んじる民族性や、治安の良さが諸外国から絶賛されることも多い。
南浦和駅で起きた救出劇などは、当初日本のメディアでは「乗客が押して救出した、電車は8分遅れ、1400人に影響が出たが、後続電車に遅れは生じなかった。」と報じられており、報じたのも埼玉新聞であることからローカルなニュースに過ぎなかった。
ところが、どこから調べてきたのか海外のメディア関係者がこれを見ると状況が一変し、いつの間にか世界各国で大々的に報じられるようになった。
各国では「我々の国では考えられない」と報じており、こうしたことが明るみに出ることが多々ある。
東日本大震災の際にも他国の災害時の略奪の写真とコンビニに列をなしている日本人の写真とが比較される画像が海外で出回るなど(我々日本人の感覚からすれば列があれば並ぶものというのが通常である)こうした例は枚挙にいとまがない。
こういったいい意味でのガラパゴスが海外において報じられることも多いが、当の日本人はこうしたことを当たり前と認識しているため、一種のカルチャーショックと言ってもいいだろう。
新しい若者の間の親日派に多い。日本のアニメやマンガ、ゲームといったオタク文化の人気である。
この辺りはニコニコ動画でも馴染み深いものではないだろうか。海外の反応といったものでこういった文化の浸透が日本にも伝わっている他、そういった日本をテーマにしたイベントなども数多く繰り広げられている(Japan Expoなど)
日本のアニメやマンガの影響は想像以上に大きく、親日家の増加に貢献している。これらは先述の日本人論と同様に、ガラパゴス化がかえってメリットとなっているケースの一つである。
親日とされていることが多い国は以下の通りである。
ここで注意しておきたいのは日本人自身が親日と認めている国であり、相手国にしてみれば勝手に親日として認定されたに過ぎない日本人の一方的な思い込みによるものが多く、単なる片思いに過ぎないのである。親日国だと勝手に思い込んで日本人の自分は現地人に歓迎されると勝手に思い込んでいるに過ぎず、実際に行ってみたら全く違ったなんて言うのはザラである。多くの親日国と言われている国の人々は親日と認定した理由が単に日本にとって都合がいいものに過ぎないことから現地の人々には何ら関係のないものであることがほとんどで、現地の国々の一般人が日本に親しみを持つとは限らないからである。
そういったことから我々日本人が勝手に親日国、反日国と言った決めつけでモノを考えることは対象になった国にとっては有難迷惑な話であり、それを対象国の人間に押し付けると却って迷惑がられるものである。親日であるか反日であるかは現地に住む各国の人々の国民感情が尊重されるべきであり、日本人が勝手に好意や敵意をもって、この国は親日国、反日国といった考えをもって接することは驕った志向であり、国際社会においては慎まねばならない。
有史以来、日本は海を隔てての隣国である古代中国との交易や文化交流の歴史があり、最古のものでは後漢から「漢倭奴国王」の金印を授けられた奴国や、魏から「親魏倭王」の称号を与えられた邪馬台国の卑弥呼の記録がある。
日本側で記録が残されている中国との直接のやり取りとしては古くは飛鳥時代の遣隋使、奈良時代から平安時代前期にかけての遣唐使がある。しかし当時は日本と大陸の間で渡航するのも命がけであり、船でも1~2ヶ月を要し、しかも7~8月の九州から東風が吹く時期に帆船で中国大陸に向かうという風任せの無謀な航海であった。もちろん渡航中に嵐に遭って方角が分からなくなってしまえば海上をフラフラしながら3ヶ月以上もかかることもある。そうなってしまえば船上において全員が死ぬということもあり、文字通りの一生をかけた命懸けのものであった。
そんな過酷かつ危険な旅であったため、日本初の遣隋使が送られた630年から遣唐使が廃止されて事実上の国交が絶たれる897年までの270年間、日中を行き来した遣唐使は僅か20回しかない。もちろんこの数字のなかには道中で遭難してしまったり、間違って日本の海岸に漂着してしまったりと失敗もあり、実際に中国に行きついたのはこの半分くらいではないかと考えられている。
いずれにせよこれでは国家間の交流がやっとであり、民間人の間での文化を触れるなどというのは到底おぼつかず、日本人が外国と民間交流が出来るようになるのは何百年も経って航海技術が発達してからである。
日本人が初めてヨーロッパに出向いて日本がヨーロッパの人々に紹介されたのは安土桃山時代からである。この当時も日本は当時の中国であった明や、現在の韓国と北朝鮮にあたる李氏朝鮮との交易は行われていたが、遥か西のヨーロッパとの交流は全く無かった。1542年に種子島、現在の鹿児島県種子島西之表市あたりに漂着したポルトガル人のフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが日本にやってきた初めてのヨーロッパ人となる。当時は当然ながら日本人にポルトガル語の分かる人間などおらず、船に同乗していた中国人通訳が漢文に訳し、その漢文を日本人の漢文学者を通じて日本語に訳す二重通訳が筆談で行われた。
その後に日本に興味を持ったポルトガル人とスペイン人が盛んに商船でやってくるようになると、商船に同乗していたキリスト教ローマカトリック教会の宣教師らが日本にやってくるようになり、日本でキリスト教の布教が盛んになってキリスト教徒が日本で誕生するようになる。日本で洗礼を受けてキリスト教徒となった日本人の少年4人が当時の戦国大名の手紙を携えてヨーロッパに赴いたのが天正遣欧少年使節である。4人の少年はスペイン国王フィリペ2世やローマ教皇グレゴリオ13世とも謁見し、ポルトガル、スペイン、イタリア、ローマと欧州各国を渡って各地で大歓迎を受けた。ヨーロッパ人は初めて見る日本人の姿に惚れ惚れして日本への憧れを抱いた。この天正遣欧少年使節でヨーロッパ人は初めて日本語に出会い、九州各地の戦国大名の手紙を通じて初めて日本の文書を見た。当時のヨーロッパ人には文章を縦に読んで左に読み進んでいく日本語の文書は本当に珍しかったようで、当時のスペインとポルトガルを支配していたフィリペ2世は大変気難しい性格であったにもかかわらず日本語や日本の文書、日本人の服装や文化に大変な興味を示し、当時の天正遣欧少年使節が身に着けていた草履や太刀、和装を借りて同じものを作るように命令したりしていたらしい。この少年4人はヨーロッパ中に知られ、ドイツでは天正遣欧少年使節の肖像画が作られて日本人がヨーロッパにやってきたという記録が初めて残される。この時代から初めて民間人を通じての親日が生まれるのである。
しかし残念なことに彼ら天正遣欧少年使節が日本に帰るころには当時の日本をおさめていた豊臣秀吉によってバテレン追放令が出されて宣教師は迫害を受けるようになり、商船を通じて細々とした交流にとどめられた。少年使節4人は豊臣秀吉から弾圧を受けるようになり、秀吉の死後の徳川家康は宣教師の布教はしばらくは黙認したが、江戸幕府が成立すると徐々に禁教や弾圧は厳しくなり、やがて4人の少年使節はバラバラにされていき、1633年に最後の1人が江戸幕府の役人に捕まって処刑、まもなく江戸幕府はポルトガルとの国交を断って本格的な鎖国の時代に入り、日本とポルトガル間で作られた親日は途絶えることになる。江戸時代の大半はヨーロッパ諸国では唯一国交を許されたオランダに限った細々とした交流にとどめられた。
この天正遣欧少年使節では日本からポルトガルまでの航路は2年8ヶ月にも及ぶ。スエズ運河など無かったためアフリカの最南端である喜望峰まで南下する航路を取り、推定される航行距離は11000~12000kmにも及ぶ大航海であり、当時の日本人の航海技術では到底不可能な距離であった。それを可能にしたのが大航海時代に培われたポルトガルやスペインの航海技術であり、天正遣欧少年使節たちはポルトガル人の航海技術に驚き、様々な記録を残している。また少年使節は日本に帰る際に当時の日本に無かった活版印刷機を持ち帰っており、日本において文字の印刷という技術が初めて伝わった。彼らがヨーロッパにおける親日を作った第一人者であることは間違いない。
かつては江戸時代、1823年に日本にやってきたオランダ人医師のシーボルトのような例もある。(本当はドイツ人だったらしい)シーボルトは初めて鎖国中の日本の文化に触れて感激し、後に幕府の許可を得て江戸にまで出向いた。そこで日本の武士の風体や農村で働く農民、町人文化、西欧にはない草花や動物など、様々な日本のありのままの姿を記録した。その後のシーボルトは幕府の役人の間宮林蔵に贈り物をしたり、伊能忠敬の作った日本地図を内緒で受け取ったりと、少々やり過ぎてしまって幕府の怒りを買って1828年に追放処分にされてしまうが、ドイツに帰国したときには数千個もの日本文化を示す品物やコレクション、動植物の標本などを持ち帰っており、後の1832年、駐日時代の記録を事細かに紹介した大著『NIPPON』を発行してヨーロッパ中で大反響となった。西欧においては天正少年使節以来、およそ200年ぶりに日本が大々的に注目されることになり、このシーボルトの功績は後の日本の開国へと結びついていくことになる。
19世紀になると日本は黒船の来航を機会として開国した。そして開国後の19世紀中盤に、ヨーロッパで何度か開催された万国博覧会には開国したばかりの日本も参加しており、そこで日本の文物が広くヨーロッパに紹介された。その結果として花開いたのが日本の文物を取り込んだ文化、すなわちジャポニズムである。
画家たちは日本の浮世絵を意匠に取り込んだ絵画を描くようになり、現代でも有名なゴッホやモネもジャポニズムの影響を受けている。
20世紀に入ると第一次世界大戦を通じて日本は戦場となったヨーロッパ向けに船舶や鉄鋼、武器や弾薬の原料などで輸出が急速に伸び、日本の財閥や商船会社などがヨーロッパに行く機会が急速に増えた。これによって明治以来続いた日本とヨーロッパの船舶の行き来が急速に発達し、大正時代には日本発の世界一周航路が開拓された。そのため極めて一部の富裕層に限られた欧米への渡航がしやすくなり、富裕層でもヨーロッパに旅行する人が現れるようになった。明治時代は商船や留学生などに限られた細々と行われた日本人と欧米人との民間交流が大きく変わって自由な民間交流へと志向が広がったことになる。
しかし昭和に入ると満州事変から始まる日中戦争を経て欧米各国とは急速に関係が悪くなり、当時は1933年の日本の国際連盟脱退から国際的孤立が深まってくると状況は悪化の一途をたどる。国内では天皇制ファシズムに基づいた軍国主義体制へと政治が変化したことから国際的世論は弾圧を受けて封殺されて行き、一方で軍国主義体制の下で反欧米感情が急速に沸き上がっていきアメリカとイギリスに対して鬼畜米英と呼ぶほどに関係は悪化した。1941年にアメリカ、イギリスをはじめとする連合国に宣戦布告、太平洋戦争が勃発し、日本は第二次世界大戦のなかに突き進んでいく。太平洋戦争を通じて日本軍は現在のマレーシア、シンガポール、タイ、ミャンマー、ブルネイ、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニア、ソロモン諸島、南洋諸島などを占領したが、その際に様々な国に日本人は兵士として東南アジア各国へと渡航したことになる。当時としてはごく一部の富裕層に限られた海外旅行を多くの日本人が初めて経験したことになる。もっとも戦争という現実が無ければの話であり、日本軍の大本営が行った軍政監部の設置によって日本軍による東南アジア諸国の苛烈な統治や搾取が行われるうちに日本軍は現地人に嫌われて行った。東南アジア諸国では日本軍による搾取に強制労働や慰安婦、反逆者への残虐な公開処刑などの軍政により現地では反日感情が急速に高まっていき、戦局が日本軍に劣勢になると日本に占領されていた国々の現地人は日本軍に反撃するようになり、終戦間際になると現地の日本邦人らも復讐として襲撃を受けるようになった。そして終戦後はほぼアジア全域の国々で反日感情が高まることになる。もっとも日本人がいきなりやって来て占領して、自分勝手な政治を始めてモノや人を奪って従わない者を惨殺していれば当然の話である。
この第二次世界大戦で日本人がアジア全域で行ったことは各国の歴史としてしっかりと刻まれており、僅か数年から長くても15年余りだった日本軍の占領時代が各国の歴史教科書でページ数全体の3%~5%割かれるほど詳細に書かれている。特にインドネシアでは高校の歴史教科書で全ページ数の6%余りが占領中の3年半あまりに割かれており、苛烈極まりなかった日本軍の占領時代が書かれている。こうしたことからアジア諸国は日本人に対しては過去にこれほどのことをやったということを知っているという前提があるということを理解しておかねばならない。
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最終更新:2025/01/18(土) 06:00
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