グラディアトゥール(Gladiateur)は、1862年フランス生産・イギリス調教の元競走馬・元種牡馬。
史上2頭目の英国クラシック三冠馬であり、異名は「Le Vengeur de Waterloo(ワーテルローの復讐者)」。フランス生まれでイギリスで活躍したこと、そしてナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗れてからちょうど50年目の年に英ダービーを勝利したことに由来する。
父Monarque、母Miss Gladiator、母父Gladiatorという血統。父モナルクはプール・デッセ・デ・プーラン(仏2000ギニー)、ジョッケクルブ賞、カドラン賞などを勝利した活躍馬だが、母ミスグラディエイターは1勝馬で、本馬の1歳上の全姉ヴィラフランカがオカール賞(現GII)を勝った以外は近親に殆ど活躍馬がいない。
ナポレオン1世の副将の一人息子だったフレデリック・ラグランジュ伯爵によって生産されたが、幼少期に母馬に前脚を踏まれて負傷してしまい、慢性の炎症を抱えることになってしまった。ラグランジュ伯爵が見込みのある馬だけを預けていたイギリスのトム・ジェニングス調教師に預けられた後も中々調教が進まず、デビューしたのは2歳10月だった。主戦はアンリ・グリムショー騎手が務めた。
2歳時はデビュー戦を勝利したが、続く2戦は3着同着・着外と連敗し、3戦1勝で終えた。
3歳時は2000ギニーから始動したが、単勝8倍とそこまで抜けた評価はされていなかった。しかしゴール前で5頭ほどが横一線に並ぶ接戦からクビ差抜け出して勝利を収めた。続く英ダービーでは同陣営の前年英オークス馬フィユドレールと戦前に併せ馬を行って先着する順調な臨戦過程を見せていたことなどが影響して1番人気に支持され、30頭立ての10番手で直線を向くと追い込んで2馬身差を付けて勝利した。
英ダービーを他国生産馬が勝利したのは初のことであった。これによりフランスではグラディアトゥールが英雄視されるようになったが、一方でイギリスのホースマンからはフランスのダービーに当たるジョッケクルブ賞がフランス産馬限定であることに対して批判が噴出したと言われる。
閑話休題、グラディアトゥールは英ダービーの11日後の6月11日に生国フランスに凱旋し、パリ大賞典に出走した。15万を超える大観衆が集まる注目の一戦となったが、これを3馬身差(もしくは8馬身差とも。資料によって相違がある)で圧勝した。更にはイギリスへ戻ると7月のドローイングルームSを40馬身差で勝利し、翌日のベンティング記念Sは単走で「勝利」した。
その後はセントレジャーに直行したが、脚部不安の悪化により状態は良いとは言えなかった。それでも、英オークス馬レガリアに3馬身差を付けて勝利し、史上2頭目の三冠馬となった。
セントレジャーの2日後に行われたドンカスターSを勝利した後に渡仏し、ドンカスターSの9日後のプランスアンペリアル大賞(現:ロワイヤルオーク賞)ではパリ大賞典で2着に破ったベルチュガダンを再び破って勝利を収めた。更にイギリスに戻って3週間後のニューマーケットダービーを40馬身差で勝利し、ハンデ戦の有力競走であるケンブリッジシャーハンデキャップに出走したが、138ポンド(約62.6kg)という酷量が祟って着外に敗れた。この時、上位3頭はいずれも40kgに満たないという超軽ハンデの馬であった。
ケンブリッジシャーハンデキャップを最後に休養に入ったグラディアトゥールは4歳4月に復帰。復帰後の2戦を単走で勝った後、ロンシャン競馬場に飛んで20馬身差・10馬身差で連勝した。1ヶ月半後のアスコットゴールドカップ(20ハロン)では、道中で先頭から300ヤード(約274m)も離されながらじわじわ差を詰めていき、結局2着レガリアに逆に40馬身差を付けて圧勝した。
その後は10月のアンプルール大賞(6400m)に出走したが、グリムショー騎手がレースの3日前に25歳の若さで交通事故死していたため、ジョージ・プラット騎手が騎乗した。これを3馬身差で勝利したのを最後に引退した。
通算成績は19戦16勝だった。なお、アンプルール大賞はこの3年後に「グラディアトゥール賞(Prix Gladiateur)」と改名された。
グラディアトゥールは小人の中に巨人が混ざっているようだと言われたほど大柄な馬だったが、一方で馬体の見栄えはあまり良くなかったらしく、次のような逸話が残っている。
ある時、ニューマーケットのジェニングス厩舎を一人のフランス人が訪れた。グラディアトゥール目当てに訪れたそのフランス人に向かって、ジェニングス師が1頭の馬を指差して馬車馬と言って紹介した。その馬こそがグラディアトゥールだったのだが、それを知らないフランス人は「そんな無様な馬じゃなくて、フランス生まれの英雄を見せろ」と言い放った。これを聞いたジェニングス師は「その無様な馬が英雄だ。フランス人がこんなジョークを真に受けるほど馬を見る目がないとは思わなかった」と冷笑したという。
さて、引退したグラディアトゥールは一旦イギリスの牧場で種牡馬入りした後、3年目から生産牧場のダンギュ牧場に移動した。ところが普仏戦争が起きて牧場がプロイセン王国軍に接収されると、安全への配慮もあってラグランジュ伯爵は本馬を含む大半の所有馬をセリで売却。本馬は15万2250フランでイギリスのミドルパークスタッドに移動した。
ミドルパークスタッドの代表が1873年に死亡すると、更に別の牧場に購入されて種牡馬生活を続けたが、徐々に脚の炎症が悪化して最終的に立つこともままならなくなり、1876年1月に14歳で安楽死措置が執られた。遺体は埋葬され、尾だけがニューマーケットの国立競馬博物館に寄贈されて展示されている。
種牡馬としては全くと言っていいほど成功せず、直系は20世紀前半には既に断絶した。しかし産駒の1頭キープセイクは1902年のパリ大賞典でセプターに土をつけた名牝キジルクールガンの曾祖母となり、キジルクールガンは凱旋門賞を連覇したクサールの母となった。そしてそのクサールが種牡馬としてトウルビヨンを出したことによって、本馬の血自体は現在でも残っている。
Monarque 1852 鹿毛 |
The Emperor 1841 栗毛 |
Defence | Whalebone |
Defiance | |||
Reveller Mare | Reveller | ||
Design | |||
Poetess 1838 鹿毛 |
Royal Oak | Catton | |
Smolensko Mare | |||
Ada | Whisker | ||
Anna Bella | |||
Miss Gladiator 1854 鹿毛 FNo.5-h |
Gladiator 1833 栗毛 |
Partisan | Walton |
Parasol | |||
Pauline | Moses | ||
Quadrille | |||
Taffrail 1845 青毛 |
Sheet Anchor | Lottery | |
Morgiana | |||
The Warwick Mare | Merman | ||
Ardrossan Mare |
クロス:Whalebone=Whisker 4×4×5(15.63%)、Defiance 4×5(9.38%)、Tramp 5×5(6.25%)
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最終更新:2024/12/02(月) 15:00
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