「北条氏照」(ほうじょう・うじてる 1540 ~ 1590)とは、戦国時代の武将である。関東の覇者北条氏康の子。大石氏に婿入りして大石氏照を名乗った。名前の読みは「うじひろ」とも。
概要
北条氏康の三男。母は今川家出身の瑞渓院で、北条氏政らとは同母兄弟。武蔵国の有力国人・大石定久の婿養子となって家督を継ぐ。はじめ滝山城、のち八王子城を拠点としている。北条家の軍事における中心人物として活躍、勢力拡大に貢献した。通称は陸奥守。
小田原の役で豊臣秀吉の前に降伏すると、兄・氏政と共に切腹した。
本拠・八王子城
1569年、武田軍の小山田信茂によって滝山城が落城寸前まで攻められたことをきっかけに、より防備の強い山城が築城されることになった。このとき、山頂に八王子権現が祀られたことから八王子城と名付けられ、それが現在の地名の由来にもなっている。
小田原の役では氏照自身は小田原城に籠もっており、家臣や領民たちが八王子城を守ったが多勢に無勢、氏照の妻・比佐も自害した。この敗北は北条家を追い詰め、半月後に小田原開場へとつながる。
人物
- 兄や弟たちと良く協力した
- 婿入りした大石家の人々との関係は良好だった
- 武田家滅亡の際、武田領から逃亡してきた人々を領内に匿うなど、情に厚い人物だった
- 北条家の一員らしく善政家だった。小田原の役では城に逃げ込んだ領民が防衛戦に参加したという説がある。
- 上杉謙信、武田信玄、佐竹義重など北条家を苦しめた有力大名たちが危険視した名将
- 北条軍に参加した武将が、「着陣したら、布陣のやり方は北条氏照を見習え」と指示を受けることがあった。北条氏照の兵は規律正しく訓練も行き届いていたことが窺える
- 家臣や与力には勇将猛卒が揃っていた。
- 関東の諸勢力の複雑な関係に加えて、地理や季節・天候もよく調べさせて戦略に組み込んだ(これはどこの武将も行っていたことではあるが)
- 古河公方の後見役を務めて領地の統治を代行するなど内政でも活躍
- 蘆名家や伊達家など奥州の諸大名とも手を結んで佐竹家に対する包囲網を形成するなど、外交でも活躍
- 織田信長が中央で勢力を拡大すると、北条氏照は抜け目なく使者を送った
- 豊臣秀吉が惣無事令を出した後、北条氏照は宿敵だった佐竹義重と協力して常陸国で国人衆の間の争いを調停するなど、時勢を読んだ対応をした
- 北条氏照に限らず、北条軍は敵に対しては容赦しなかった
- 反北条連合の有力者だった結城晴朝が北条側に寝返り、宇都宮国綱が居城を維持できず退去し、佐竹義重が常陸南部から追い出されたのは、主に東関東に攻め込んだ北条軍(北条氏照が指揮)の働きである
関連項目
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