奥州藤原氏とは、前九年・後三年の役以来源頼朝に滅ぼされるまでほぼ100年にわたり奥州を支配した豪族である。
概要
奥州藤原氏誕生まで
前九年の役以前の奥州では陸奥の安倍氏、出羽の清原氏という豪族が強い力を持っていた。このうち安倍氏と陸奥国司の争いに源頼義が介入し、発生したのが前九年の役である。この役は清原氏を味方に付けた頼義が勝利し、安倍氏は当主の頼時とその息子の貞任は戦死した。
・・・が、安倍の血は滅んでいなかった。安倍頼時(役中に戦死)の娘が藤原経清に嫁ぎ、頼時の外孫、清衡を産んでいたのである。役の後に藤原経時は源頼義に殺されるが、頼時の娘は子を連れて乱の相手の清原武貞に嫁ぐこととなった。清衡は武貞の養子となり清原清衡(きよはら の きよひら)と名乗ることになる。色々ややこしい・・・。
その後、清原氏の家督を巡り、武貞の子、清原真衡とその異父弟、家衡との争いとなる。そこに源義家(頼義の嫡男)が介入。真衡の死もあり、家衡と清衡の分割相続で収まるかと思われたが、義家の裁定を不満に思った家衡が清衡を襲撃。清衡は義家の助力もあって家衡を滅ぼすことに成功する。
清原氏の所領をすべて相続した清衡は姓を父の藤原に戻し、藤原清衡と名乗った。
奥州藤原氏の誕生である。
初代・藤原清衡(1056-1128)
奥州藤原氏の祖。後三年の役を勝ち抜き清原氏の所領を獲得。朝廷の実力者に奥州の馬や黄金を献上するなどして奥州の支配権を確立する。平泉を本拠とし、都市造成を進める。1124年には中尊寺金色堂を建立。ふんだんに金を使った金色堂は奥州藤原氏の経済力の表れでもある。
二代・藤原基衡(1105-1157)
清衡死後の内紛に勝利、家督を相続する。荘園の年貢を巡って摂関家と粘り強く交渉したり、奥州に来た院近臣の娘を嫡男の嫁にして院との関係を強化するなどした。
三代・藤原秀衡(1122-1187)
基衡の嫡男。引き続き豊富な財力をもって朝廷の評価を高め、鎮守府将軍に任命される。
また、京を落ち延びた義経を保護、養育した。平氏打倒のために挙兵した頼朝の下へ向かおうとする義経を引き留めるが、館から脱走してまで向かう義経に佐藤継信、忠信兄弟を供につけた。
源平の争乱に際してはどちらに組するということもなく中立を維持。奥州の独立を保つものの、壇ノ浦にて平氏が滅亡すると頼朝の圧力が大きくなる。関係が悪化し、頼朝との対決が避けられないと判断した秀衡は頼朝に追われている義経を保護し、奥州に迎え入れる。・・・がそれから一年もしない間に病に倒れ、帰らぬ人となってしまう。
四代・藤原泰衡(1165-1189)
秀衡の嫡男(次男)。ただ、側室の産んだ長兄、国衡と非常に仲が悪く、秀衡が泰衡、国衡、義経の三人に起請文を書かせるほどであった。
頼朝からの圧力に屈した泰衡は義経の住む衣川館を襲撃、義経を自害に追い込む。その首を頼朝に差出して頼朝との和平を結ぼうとするも、頼朝は大軍を動員、奥州追討を始める。勝ち目がないと悟った泰衡は平泉に火を放って逃亡するも家臣に裏切られ殺害される。 ここに四代100年続いた奥州藤原氏は終焉を迎えた。
関連項目
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