奴留湯融泉/怒留湯融泉(ぬるゆ・ゆうせん 生没年不詳)とは、大友氏に仕えた筑前国・豊後国の温泉 戦国武将である。
概要
非常にインパクトの強い名前の持ち主。奴留湯氏(怒留湯とも表記)は大分県を発祥とする一族という。熊本県の最北東部、大分との県境に位置する小国町(北里柴三郎の出身地である)には実際に「奴留湯温泉」というぬる~い温泉が存在しており、この地名に由来しているのだろう。
大友宗麟配下の武将として、大内氏滅亡後の北九州を巡る大友氏と毛利氏との争いの中でその名が登場する。
九州情勢
初名は奴留湯直方。1560年前後に出家したようで、以後は融泉と号する。詳細な事跡は伝わっていないが、立花山城の麓の農村である、三苫や香椎の代官を務めていたという。この頃はただの内政官という存在だった。
融泉の活動に関しては、立花山城主である立花鑑載という武将の存在が切り離せない。鑑載は1565年に大友氏に対して謀叛を起こすが失敗、この時は許されて立花山城に復帰した。ただし融泉が監視役につけられる事になり、彼は立花山西部に位置する白岳に館を構えたとされる。
この時代は、それまで北九州を支配していた大内氏が滅亡した事で、その遺領を巡って大友氏と毛利氏との間で激しい勢力争いが繰り広げられていた。秋月氏をはじめ、原田氏・宗像氏・筑紫氏といった諸豪族は、両者の調略を受けて度々寝返りや反乱を起こしており、先の立花鑑載の謀叛もそのひとつだった。
上和白の戦いでの活躍
そんな危険な雰囲気漂う筑前国で、1567年に起こった上和白の戦い(かみわじろ~)で融泉はその名を高めることになる。
前夜
宝満山城督・高橋鑑種は大友氏の重臣であるにも拘わらず、実は内々では1562年の時点で毛利氏に寝返っており、近隣の諸豪族の寝返り工作を行っていた。が、そうしたスパイ活動が大友氏にバレた事で、水面下で接触していた秋月種実や龍造寺隆信に連絡し、1567年に挙兵。筑前諸豪族も次々と毛利方につき、大友に叛旗を翻した。大争乱の始まりである。
団之原の一戦(前哨戦)
9月5日、反乱した国人のひとり・宗像氏貞は立花山城を攻撃するために出陣した。立花鑑載は一度大友家を裏切った人物なので、氏貞の進軍で毛利方に寝返るものと思われた。が、この時の鑑載はあくまで大友方に付き続ける。
知恵者でもあり城下一帯の地理を把握していた融泉は、すぐさま鑑載に連絡し出撃した。
宗像方の戦法は、二手に分かれて陸と海から挟み撃ちにするというものだった。陸上では一門格の許斐氏備(このみ・うじつら)が総大将を務め、海上からは名高き宗像水軍が新宮湊からの上陸を目指していた。
宗像から南下してきた許斐勢を牽制すべく、立花鑑載は莚内(むしろうち、席内とも書く)に、融泉は庄に陣取り、団之原(旦之原)で激突した。突然の遭遇戦に驚いた許斐勢は動揺を隠しきれず、約100程度の損害を出して宗像へと敗走してしまった。
(補足:この戦いの舞台は現在の福岡県古賀市に位置する。庄は国道3号線沿いの地域である)
上和白の戦い(本戦)
本来ならばこれを追って許斐勢に更なる損害を与えるべきなのだが、今度は西から宗像水軍が上陸してくるということなので、立花勢は急ぎ立花山城に戻って敵の出方を伺う事になった。
9月8日、許斐勢が敗走したことを知らない水軍は新宮湊に上陸し、下和白を経由して上和白の大神神社に陣を構えた。この周辺は北に勾配が激しい坂があり、神社はそのおおよそ中腹程度の位置にあった。大神神社にいれば立花山はもう目と鼻の先であり、直線距離では約2~3km程度である。(※大神神社は現在の福岡市東区高美台に位置する)
敵兵を察知した融泉は、すぐさま手勢を率いて山を駆け下って宗像勢と対峙し、兵を整えて激突した。午後2時から数時間の戦いで双方おおよそ200名程度の死傷者を出し、双方数百mを境に睨み合いが続いた。
しかし肝心の許斐勢がいないこともあり、敵の援軍を恐れた宗像水軍は不利を察して、大神神社や近くの民家に放火しながら夜陰に紛れて船で宗像へと撤退した。
余談……ちなみに上和白・下和白は現在では和白・美和台・高美台などの地名に変わっているが、古くは三韓征伐において軍議が行われたという重要な地であり、それにちなんで日本における議会発祥の地とも言われている。
その後
こうして毛利方の宗像軍を撃退し、筑前の要衝・立花山城を無事防衛したことで武名をあげた融泉であったが、翌年になって立花鑑載がまたも大友氏を裏切ってしまった。不意打ちを受けた融泉は敗れるも、なんとか逃げきって本国に立花謀叛の報告をしたという。それ以降の消息は分からない。
結局、立花鑑載は敗れて処刑された。毛利氏は1569年限りで九州から手を引き、高橋鑑種は助命されたが完全に失脚、宗像氏ら諸豪族は揃って降伏して大友配下に収まる事になる。
関連項目
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