概要
宮崎県議を経て2004年参院選・宮崎県選挙区で初当選(任期は2010年7月まで)。
県議時代から自民党に所属していたが、後述する派閥抗争の影響もあり、参院選では無所属候補として出馬し当選。任期の前半は民主系無所属議員として活動していた。任期の後半は自民系無所属・改革クラブを経て自民党に復帰。現在は自民党議員として活動しており、2010年参院選の宮崎県選挙区公認候補にも内定している。
経歴
国政進出以前
1966年8月18日、宮崎県宮崎市高岡町にて高岡町議・宮崎県議を務めた松下渉の息子として生まれる。ちなみに後に義父となる野辺修光もまた串間市長・宮崎県議を務めた現役の政治家である。
宮崎西高校から法政大学に進学し、卒業後は宮崎県庁に入庁。この頃から早世した父の後継者と目されるようになる。1996年12月には県庁を辞職し、地元選出の自民党参議院議員・長峯基に公設秘書として仕え、政治の経験を積んだ。そして1999年4月に父の後を襲い宮崎県議選に出馬、以後2期連続で当選を飾る。県議会では自民党会派に所属した。
派閥抗争と2004年参院選
ところが2期目途中の2004年4月、突如として同年7月の参院選に無所属で出馬すると発表、県議を辞職し自民党からも離党することになる。この突然の出馬の背景には自民党宮崎県連における熾烈な派閥抗争が存在した。
宮崎県連では長い間、江藤隆美・江藤拓親子(いずれも衆議院議員)を領袖とする「江藤派」と、上杉光弘参議院議員を領袖とする「上杉派」の対立が続いており、衆院選・参院選・知事選と事あるごとに分裂選挙を繰り広げていた。
松下出馬の直接の原因となったのは2001年参院選だった。現職として再選を目指す松下の恩師・長峯に対し、当時は自民党筆頭派閥だった平成研の実力者として権勢を誇る上杉が影響力を行使、自派の県議・小斉平敏文に長峯から自民党公認の座を奪わせたのである。長峯は江藤派の支援を受け、無所属で出馬するも小斉平に敗れていた。そして2004年参院選ではその上杉が自民党公認候補として4選を目指していたのである。松下は江藤派の刺客として、また恩師・長峯の仇を討つために、領袖である上杉本人の首を狙うべく出馬したという形だった。
すると松下に思わぬ援軍が現れる。独自候補擁立を諦め、松下への相乗りを決めた民主党・社民党・連合宮崎である。こうして「自民党上杉派・公明党Vs自民党江藤派・民主党・社民党・連合宮崎」という奇妙な構図になった選挙を制したのは松下だった。長峯や江藤派の活躍で自民票の1/3が上杉から松下に流れたことが最大の勝因となった。
民主党と自民党の狭間で
当選後は自民党・民主党いずれの追加公認も得ることなく、無所属議員として政界再編を睨んだ活動をしていく意向を明らかにしていたが、差し当たりは無所属のまま会派「新緑風会」に入り、民主党と共同歩調を取ることになった。
その後、任期の前半は基本的に民主系無所属議員として活動し、郵政民営化法案にも反対の姿勢を貫くなどしたが、2007年の参院選を前に両者の関係は崩れることになる。再起を目指す恩師・長峯を民主党推薦候補とするよう求めた松下に対し、民主党はこれを拒否し、県連副代表の外山斎を民社国共同推薦候補として擁立したのである。皮肉にも外山はかつて松下の私設秘書を務めた男だった。
松下は「人間の道理、政治家の道理として長峯基先生を支持する」として新緑風会を離脱、事実上民主党と決別した。だが肝心の江藤派が反民主で結束するために上杉派の現職・小斉平支持に回ったこともあり、松下の支援もむなしく、長峯は4位と惨敗。また長峯に保守票を喰われた小斉平も外山に敗れ落選。保守分裂で笑ったのは民主党だった。
参院選後は「自民党と民主党のちょうど真ん中」に立つとしつつも、実質的には自民系無所属議員として活動した。
改革クラブから自民党復党へ
2008年8月、民主党内で孤立していた渡辺秀央・大江康弘、郵政民営化に反対して自民党を離れた荒井広幸らと共に、親自民・反民主を方針とする新党・改革クラブを結成する。同党は麻生内閣の閣外協力与党として自民党と共同歩調を取り、実質的には自民党の衛星政党のような立場だったため、半ば自民党に復党したに等しい状態となった。
とは言え閣外協力の小政党に対する自民党の態度は冷たく、2009年総選挙における改革クラブ唯一の公認候補である西村真悟に対し、自民党はコスタリカ等の調整を一切行わずに公認候補をぶつけ、西村は惨敗し議席を失ってしまう。谷垣禎一新総裁も「統一会派と党公認は切り離して考える」と明言し、改革クラブの前途には暗雲が立ち込めていた。
そこで松下は正式な自民党復党を目指して党本部や宮崎県連と交渉を重ね、本来現職議員は免除される公募に応募することを条件に復党・公認が認められることとなった。そして2010年1月15日、5年9カ月ぶりに自民党に復党。3月には正式に宮崎県選挙区の公認候補として選出され、名実ともに自民党議員としての地位を取り戻した。
2010年4月20日に発生した口蹄疫問題では、その翌日から宮崎入りし、それ以降全力で口蹄疫対策にあたっている。
雑記
- 自民党に復党する際、松下の離党により改革クラブの議員数が4名となり、政党要件(ここでは所属国会議員5名以上)を満たせなくなることから、同党が政党助成金を受け取れなくなるという問題が生じた。そこで、既に引退を決めていた自民党参議院議員・山内俊夫を「最後のご奉公」として予め改革クラブに移籍させ、帳尻を合わせる措置が取られた。要するに政党助成金を確保するため議員をトレードしたものであり、さすがに大義名分が立ち難かったか、両党ともにホームページでこの件はアナウンスせず、いつの間にか議員が入れ替わったかのような扱いにしていた。
- ネットワークビジネス(連鎖販売取引・マルチ商法)の発展を目指す「健全なネットワークビジネスを育てる議員連盟」に加盟していたことを問題視されることもある。
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関連項目
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