横浜港ドイツ軍艦爆発事件とは、第二次世界大戦中の1942年11月30日に横浜で発生した爆発事故である。油槽船ウッカーマルク、仮装巡洋艦トール、拿捕船ロイテン、日本の第3雲海丸が沈没し、計103名が死亡する大惨事となった。
概要
第二次世界大戦時、日本はドイツやイタリアと同盟関係にあった。独伊は日本向けの工作機械や新兵器の青写真を積載した「封鎖突破船」と呼ばれる偽装商船を占領下のフランスから出発させ、連合軍の海上封鎖を突き破って日本の勢力圏である東南アジアに派遣、積み荷を降ろしたのち欧州では入手困難な資源を満載してヨーロッパに持ち帰らせていた。対する日本はペナン、バタビア、シンガポール、スラバヤ、神戸、横浜などを封鎖突破船の受け入れ港に指定し、荷役の手伝いや船体の整備を提供。時には仮装巡洋艦や拿捕した敵商船の受け入れも行っている。1941年12月6日にリオ・グランデが大阪へ来訪したのを皮切りにヨーロッパから続々と封鎖突破船が出発。
- 高速給油艦ウッカーマルク
- 仮装巡洋艦トール
- 仮装巡洋艦ミヒェル
- 封鎖突破船ドッガーバンク(イギリス商船スペイーバンクを拿捕したもの)
- 封鎖突破船オソルノ
- 封鎖突破船ヴェーザーラント
- 貨客船ハーフェルラント
- 貨客船ロイテン(トールが拿捕したイギリス商船ナンキン)
- 給油船シャルロッテ・シュリーマン
爆発事故の経緯
1942年11月28日――爆発事故の2日前――、横浜の新港埠頭第8号岸壁に給油艦ウッカーマルクが入港。仮装巡洋艦トールがウッカーマルクに横付けして補給物資の受け取り作業を始める。また、同じ埠頭内で貨物船ナンキンの油槽を中国人船員41名が清掃していた。翌29日、第3雲海丸が隣接する第10号岸壁に投錨。南方方面に輸送するための野砲や高射砲等の弾薬を積載し始めた。
そして11月30日13時46分、ウッカーマルクの船体が一瞬膨らんだように見えた後、突如として爆発が発生。ウッカーマルクから漏れだした重油に引火して辺り一面が火の海に転じる。爆炎は横付けしていたトールをも巻き込んで弾薬が誘爆、13時48分に更なる大爆発を引き起こした。一瞬で生じた巨大な炎の渦は埠頭内の第3雲海丸とロイテンを呑み込んで連鎖的な誘爆を招くと同時に、岸壁付近の上屋、倉庫、建物が吹き飛ばされ、衝撃波は1km以上離れた市街地にまで及んで窓ガラスが割れたという。その凄まじさたるや「1トン爆弾100発分」と評される。地震計にも反応があった。
爆心地周辺のウッカーマルク、トール、ロイテン、第3雲海丸の4隻は全損。それ以外のドイツ船舶は少し離れた場所の埠頭に停泊していたため難を逃れているが、それでもシャルロッテ・シュリーマンに火の手が及びそうになり、日本の消防隊のおかげで辛くも延焼から逃れられた。死者はドイツ人62名、中国人36名、日本人5名の103名が死亡、被害総額は3450万円と発表された。空を黒く染めるほどの大きな黒煙が噴き出し、目撃者も多数存在していたが、翌日の新聞に「商船の火災」と小さく記された程度で長らく機密扱いとなる。
爆発の原因について、当時は「スパイの破壊工作」という噂が流れていた。実のところ、説明の行き違いでウッカーマルクに軽油ではなくガソリンが積み込まれ、油槽内に危険な揮発性ガスが残留している状態で知らずにドイツ人水兵がタバコを吸ってしまって爆発――というのが現在の有力説である。入港中だったため乗組員の全滅は避けられたものの、乗船を失った約500名のドイツ軍将兵は行き場を失い、やむなく横浜市内の病院やホテルに収容。爆発で難聴になった者、重度の火傷または心的外傷を負った者75名はそのまま日本国内に留め置かれて箱根芦之湯の松阪屋旅館に収容、軍務に復帰出来る者はドッガーバンクや後から入港してきた封鎖突破船イレーネによって帰国を目指したが、いずれも道中で撃沈。トールの元乗組員約100名はミヒェルに転属しているが、1943年7月に伊豆半島沖で撃沈されて大半が戦死。ヨーロッパまで生還出来た者は少なかった。
関連項目
- 1
- 0pt